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ぶらり関西みて歩記(あるき) 守口宿

〔第3回〕
なんでやろ? 

言われてみれば、くねくね蛇行が多い京阪本線

読者の方から「他の路線と比べて、京阪本線に蛇行が多い事情を調べてほしい」という旨のお便りをいただいた。

路線を地図で確認したら、他の私鉄やJR線が直線または緩やかなカーブを描いているのに対して、京阪本線はクネクネと蛇行している個所が多いようだ。

マニアの方の知識には及ばないけれど、「こういう事情があったんだなあ」ということを、調べのついた範囲で綴ってみたい。

明治39年、大阪・京都間に軌道敷設の特許を取得した畿内電気鉄道株式会社(現、京阪電気鉄道株式会社)は、大阪側の起点に高麗橋を予定していた。ところが「市内交通を営利企業に任せず、市営で行う」とする大阪市の「市営モンロー主義」で圧力がかかり、天満橋への変更を余儀なくされた。

また建設当初には大阪市電への乗り入れや、戦前には梅田まで乗り入れる計画もあったが、いずれも果たせなかった。

昭和30年、運輸大臣の諮問機関「都市交通審議会」が大阪部会を設けて、3年間で17回もの会合を重ねている。

当時、大阪市の地下鉄整備事業は財政難で遅々として進まず、市内の交通事情は急速に悪化していた。そんな状況を改善するため「都市交通審議会」は「私鉄各社による市内中心部への乗り入れ路線の建設が望ましい」とする答申を運輸大臣へ提出した。これを機に、市営モンロー主義はしだいに崩れて行く。そして開業から約半世紀を経た昭和38年4月16日、京阪本線が地下線で淀屋橋まで延ばされたことで、悲願の市内中心部への乗り入れを果たしたのである。

天満橋駅を出て京都方面へ向かう京阪電車の特急

一方、京都側はどうだったか。京都府に入ったとたん、蛇行がいよいよ激しさを増す。とりわけ中書島・丹波橋間、深草・東福寺間は、短い距離の間に右へ左へと蛇行甚だしく、直線は皆無である。京都に何か特別な事情でもあったのだろうか。

京都側の起点である五条(現、清水五条)と塩小路の間には、住宅が密集していたため、用地の取得が難航した。一時は五条を諦めて、塩小路を起点にすることも検討されたほどだ。そんな折、鴨川・琵琶湖疏水間の堤防上に軌道を設置する案が京都市から示され、さらに市電のために取得した特許の譲渡まで持ちかけられた。そこで塩小路と五条の間を当時の金額で5万円、五条と三条の間を47万円で譲り受けた。

軍の権限が強い時代でもあった。伏見地区には陸軍第16師団が駐屯しており、練兵場もある。第一から第三までの軍道を跨ぐポイントは立体交差になったものの、駐屯地や練兵場の中には線路を通せない。現在の聖母学院・京都府警察学校・龍谷大学あたりが当時の駐屯地と練兵場跡に当たるが、地図で見ると路線はこのあたりの地域を緩やかに迂回するように通っている。

ほかにも、宇治川と木津川が洪水対策で付け替えられたことで橋の位置が変わったり、地盤が軟弱だったりという事情が重なって、設計やルートの変更を余儀なくされた場所が十数カ所にも及ぶ。

さらに京街道の宿場を縫うように建設されたこともあって、全線を通して蛇行が多くなったようである。

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