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ぶらり関西みて歩記(あるき)

枚方宿

〔第4回〕

戦国時代までは寺内町として栄えた枚方。都市機能はやがて川沿いの宿場町へ。

問屋浜跡から元の道へ戻り、左へ折れてまっすぐ歩くと、正面に見えてくるのが浄念寺だ。前の道路は大きく屈曲していて見通しが悪い。これは宿場町によくある「枡型」というつくり方で、直進できない構造で防衛機能をもたせているのだ。

鍵屋資料館によると、浄念寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、蓮如上人の弟子・石見入道浄念(いわみにゅうどうじょうねん)によって開基されたと伝えられる。元文4年(1739)に西本願寺の門跡御坊になったことから「西御坊」と呼ばれた。

門跡とは、平安時代までは祖師の法統を継承する寺院や僧侶を指し、後の時代には皇族や公家の子弟が住む特定の寺院を指すようになった。浄念寺がどちらの意味の門跡なのか、方々調べてみたが確たるものが見当たらない。「門跡」という言葉が、しだいに寺格を表す意味にも使われたというから、江戸時代の中期頃という時代を考えれば、西本願寺の法統に入ったと解釈しておけば、少なくとも間違いではないようだ。

浄念寺の枡型道路からひとつ目の角を右へ曲がり、先に見える踏切を渡って忽然と現れる階段を上ると臺鏡寺(だいきょうじ)がある。「臺」の字を、観光案内ではよく「台」と表記されている。

ここにある高さ6尺(約182センチ)ほどのお地蔵様の、足の指先と衣の裾あたりにキズがある。言い伝えによると「お地蔵様は、夜になるとこっそり修行に出かけている」といわれ「夜歩き地蔵」の名でも親しまれている。

一方で、昔から縁結びの霊験あらたかなお地蔵様としても知られており、枚方宿の遊女たちの多くが良縁を願って参拝したという。10~20年という長い年季奉公を課せられた遊女にとって、はたして良縁とはどのようなことを指したのか。そんな遊女たちの想いを一身に受けたお地蔵様は、令和の世でも、婚活に励む現代女性の想いを受け止めて下さっていることだろう。

いったん踏切まで戻ると、すぐそばにあるお寺が願生坊だ。本願寺が織田信長と戦った石山合戦のときには「枚方御坊」とも呼ばれていた。

願生坊

元々は順興寺として建立され、蓮如上人の息子・実従が整備したが、織田軍の焼打ちに遭って焼失した。

慶長16年(1611)に再興した後、東本願寺の別院となり、天和2年(1682)に願生坊と改称された。浄念寺が「西御坊」なら、願生坊は「東御坊」と呼ばれている。

こうして寺院の沿革を見ていると、枚方は寺院を中心に栄えた寺内町だったことが分かる。町の中心地は現在の枚方上之町あたりの台上にあったが、本願寺勢力が衰え始めると寺内町も衰退した。淀川沿いの枚方宿が形成されると、都市機能も台上から宿場へと移ったようだ。

余談ながら、弟子や息子を通して枚方と縁の深い蓮如上人は、84歳で没するまでに4人の奥さんと死別して5度の結婚をしている。儲けた子供は13女14男。願生坊に改称する前の順興寺を整備した実従は、蓮如が83歳のときに第5夫人との間に生まれた第27子である。

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