【侵し、侵され。】⑧ティーカップから漂う象徴的な香り


土曜の午後、フルーツがたくさん乗ったタルトケーキを洋菓子屋さんで購入し、サラの住むマンションへと向かった。

チャイムを押すが出て来ない。扉に耳をつけてみる。何も聞こえない。留守のようだ。また出ないだろうと思い、電話はしていない。

普通はLINE などで連絡をとれば良いところだが、彼女はインストールすらしていない。彼女曰く、

いつでも連絡がとれるなんてロマンチックではない。本当に私と会いたければ、雨の中だって傘もささずに何時間でも待ってくれるはずでしょ。そしたらわたしだって感激して、差していた傘を投げ出してびしょ濡れのあなたに思いきり抱きつくわ。そしてあなたの体から立ちのぼる湯気の匂いを嗅ぎながらあなたに言うの。こんな雨の中ずっと傘もささずにわたしのこと待っててくれたの。あなたって本当にバカねー。風邪ひくでしょ。でもありがとう。そんなあなたのことがわたし本当に大好きよ。ってね。ねっ、ロマンチックでしょ。いい歳したおばさんが気持ち悪いだなんて言わないでよね。いくつになったって女はロマンチックを求めるものなのよ。

だって。そんな彼女の言い分を聞いたあと、私は彼女を強く抱きしめキスをした。その時も私は彼女のスタイルを受け入れたのだ。じわじわと自分が侵食されていく様子を楽しみながら。

でも実際には、彼女の部屋の玄関の前の通路には上の階の通路があり、雨が降っても濡れないつくりになっている。そもそも今は雨は降っていない。私は買ってきたフルーツタルトが入った袋を玄関の取っ手にぶら下げて、向かいの壁に寄りかかりスマホを弄った。

30分ほど待ったところでトイレに行きたくなったので、近所の公園で用を足すことにした。公園のトイレを出たところで急に雨が降りだした。急いで駆け出す私の体を打ちつける雨は、痛みを感じるほど強く激しいものだった。必死の思いでマンションのエントランスに駆け込むと、そこには深紅の折り畳み傘についた雨粒をバサバサと振り払っているサラがいた。

「どうしたのキヨト。そんなにびしょ濡れになって」

「いや、サラの部屋に来てみたらサラはいなくて。しばらく玄関の前にいたんだけど……

そこでいきなりサラが私を強く抱きしめた。

「そんなにくっついたらサラの服もびしょびしょになっちゃうよ」

「いいのよそんなこと。だってロマンチックじゃない」

私もサラを強く抱きしめ、サラの髪の匂いを思いきり体内に吸い込んだ。

「さあ、部屋に入って体を拭いて服を乾かしましょ」

「ここに来る途中で、タルトケーキを買って来たんだ。サラの好きなメロンやら白桃やらいろんなベリーが乗ってるやつ。玄関に掛けてあるから美味しい紅茶を淹れてくれるかな」

「もちろん。ありがとう。それから電話出なくてごめんね」

「いいんだ。そんなこと。それに話を出来るのが今で良かったんだと思う」


サラがドライヤーで服を乾かしてくれている間に、私はシャワーを浴びた。パンツ一枚で浴室から出ると、買ってきたフルーツタルトと一緒に淹れたての紅茶がテーブルに置かれていた。紅茶の温かな香りは、幸せの象徴のように感じられた。

「服を着たらいただきましょう」

私はズボンを履き、長袖のTシャツを被るとサラに言った。

「その前にちゃんと伝えたいことがあるんだ」

サラは黙って私の次の言葉を待った。

私は絨毯の上に直接座るサラの横に立ち、片膝をついて手を差し伸べた。

「俺と結婚してください。そしてふたりで一緒にそのお腹の子を育てましょう」

眼を閉じた。

彼女が動く気配と服が擦れる音がして、両手に温もりを感じた。眼を開けた。瞳を揺らしながらこちらを見つめるサラがいた。

「いいの? 本当に。 大丈夫? 無理してない?」

「うん。そうしたいんだ。大丈夫かなんてわからない。無理してるのかもしれない。でもサラと一緒にずっといたいと思ったんだ。一緒に子供を育てようと思ったんだ。ねっ、いいでしょ。ずっと子供とサラと俺と3人で生活していこうよ」

彼女の固い表情がやわらぎ、満面の笑顔へと変わっていった。眼の縁には涙が溜まっている。

「うん。わかった。そうしよう。それがいい。ひとりで育てようなんて考えてしまってごめんね。あなたに負担をかけたくないなんて勝手に思い込んでいたの。失礼よね。でも、ちゃんと伝えてくれてありがとう。本当に嬉しいよ」

私が彼女の握った手を引き寄せようとしたところで、彼女は急に立ち上がった。

「そうだ。だったらちゃんとお祝いっぽくしよう」

彼女はキッチンからロウソクを持って戻ってきた。

「余ってたロウソク。3本だけあったの。この長いのがキヨトでしょ。中くらいのがわたし。そして短いのが赤ちゃんの分」

サラはそう言いながら楽しそうにフルーツタルトの上にロウソクをさしていった。私は渡されたチャッカマンでロウソクに火を点けていく。

「じゃあプロポーズの記念と、お腹の赤ちゃんが無事に生まれることを祈って」

サラと私、同時に思いっきり息を吹いてロウソクの火を消した。ふたりの拍手は部屋の外まで鳴り響き、天の神様まで届いたようだ。窓の外の雨はやみ、やわらかな陽射しが部屋に入り込んでいた。幸せなその光景は、私の、それからサラの瞼にも浸入し、満たされた想いはふたりの胸の中をあたたかく侵していった。この気持ちは一生忘れないだろう。そしていつかお腹の子が大きくなったときに話してあげるんだ。お父さんとお母さんがどれだけ幸せだったかということを。

「ねえ、一緒に写真を撮っておこうよ。この日の記念にさ」

私達ふたりは紅茶のカップを乾杯のポーズで重ねて、笑顔で写真におさまった。





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「セイラ、止まって。車に轢かれちゃうでしょ」

サラが叫ぶ。私は慌てて娘をつかまえる。私達は親子3人で公園に向かっているところだ。道の反対側に散歩しているトイプードルを見つけ、突然手を離し、駆け寄ろうとしていた。3歳になった娘はおてんばで、肝を冷やすことが何度もある。


サラの出産は大変だった。難産でなかなか産まれ出て来ない。まだ流行がおさまらないでいた感染病のせいで立ち会うことができなかったため、夜通し分娩室の前の長椅子でその時を待った。自分これまでの人生を思い出して、ひとり苦笑していた。もっとああしていれば、あの時こうしていれば、幾つも頭に思い浮かべては否定した。もし、自分がもっとうまく人生を生きてこられたとしても、今の幸せにたどり着けていたとは限らない。これで良かったんだ。

朝方ようやく元気な赤ん坊の泣き声が聞こえた。ガラス越しに見せられたその生き物は、顔を真っ赤にしてくしゃくしゃな顔で泣いていた。全く実感が湧かなかった。

サラと娘が退院してきてから、初めて娘を抱いた。甘いミルクの匂いのした、やわらかくあたたかいその小さな生き物を愛しく感じた。

育児休暇の間、夜泣きしたときに面倒をみるのは私が請け負った。オムツを確認して出ていなければミルクをやってみた。それでも泣きやまないとどうして良いのか途方にくれた。サラが起きてきて抱いたまま子守唄を歌い、軽くゆすってやると泣きやんだ。自分の無力感を思い知った。

それからの3年、自分なりに真剣に子供と向き合ってきた。うまくいかないこと、イライラさせられること、ヒヤヒヤさせられること、たくさんあった。自分のことなんてかまっている余裕などなかった。家にいる間は常に娘のことでいっぱいだった。母親であるサラの方がもっときつかっただろう。

それでも娘の楽しそうな顔を見るとそれだけで心は癒された。


今、私は君を無性に侵したい。


私というアイデンティティを少しずつ別のひとつの個体に受け継ぎ、育て上げていきたい。もちろん母親のアイデンティティもだ。否応なくそれは君を蝕むように侵してゆくだろう。そこから君は決して逃れることは出来ない。


そして君に激しく侵されたい。


その間、私も君に侵され続けるだろう。とても激しく。君という最愛の娘に。自分の中で絶え間なく作られる愛情という形で。いつか君が私達の力を必要としなくなるその日まで。いや、それでも君は私の、私達の一部となり心の中で生き続けるだろう。


人は侵し、侵され生きてゆくのだから。






《了》



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画家ゆめのさんの作品【愛の肖像】

店内に飾らせていただいているものを撮影

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