見出し画像

【読書感想】自由が大事とはいうけれど 『人間、この劇的なるもの』/ 福田恆存

福田恆存が書いた演劇に関するエッセイが非常に面白かったので、感想兼要約を残しておこうと思う。

まず、この本のタイトルの「劇的」は、二重の意味を持つ。文字通り劇の脚本のような、という意味と展開がドラマティックという意味と。この二重性はこの先折に触れて出てくることになる。

作者の主張は極めてシンプルだ。私たちが日々求めているものは、お金でも絆でも本当にやりたいことでもない。ましてや自分探しの自分でもない。生きがいである。

生きがいとは、必然性のうちに生きているという実感から生まれている
私たちが欲するのは…一定の役割を務め、なさねばならぬことをしている実感だ

引用点で重要なキーワードがある。それが「役割」と「必然性」である。われわれは、その役割がどうしても自分がやらなければならないと感じる必然性の中で、生きがいを感じる生き物なのだ。しかし、現実でそれらを得るのは困難を極める。なぜかと言うと、現代の価値観と真っ向から対立するからだ。「役割」と「必然性」に対抗する現代のキラーワードが「個性」と「自由」である。

現代において、個性と自由を尊重しなくて良いなどと考えるは人そうはいないだろう。それらは地動説程に自明の理として受け入れられている。自らの個性を発揮できる場所を自由に選択出来る。つまり、憲法で保証された職業選択の自由と重なり、近代を代表する重要な権利ですらある。

父親から家業を継ぐ息子という定番の状況を想定すると、簡単ではないことが容易に想像出来る。どんなに上手くいっている家業でも、息子は「やったー、父親から家業を継ぐのが嬉しいなー。これが自分の役割だからラッキー。」と簡単に納得できるだろうか?おそらく違う。まずこう思うことだろう。「こんなことは、自分のやりたいことではない」。われわれの価値観では「役割」と「必然性」をおいそれと受け入れられない。

つまり、ここで言いたいのは、究極的には現実世界で必然性を持って行動することはとても難しいということだ。

では、なぜ私たちはは簡単に得ることができない必然性を希求するのか?舞台作品の主人公のように生きたいと願うのか?

それは人が必然性を求めるのは人生を舞台化、もっと言うと1つの芸術作品にしたいからだと著者は言う。その欲求無くして、必然性を求め得ないと。

さて、ここまでこの本を読み進めれば読み進むほど、私たちは経済的自由や時間的自由を求めて日々仕事に汲々としているのかと思えてこないだろうか?どちらかというと、必然性に沿った仕事をこそ、われわれは求めているのではないか、と思えてならない。(仕事でなくてもいい。ただ、仕事が一番得やすい方法だろう。)

必然性を求めるのは、何も仕事ばかりではない。恋愛において、われわれは運命の相手に出会いたいと欲する。そこまでではなくても、相手に「自然に」出会いたいと欲するものだ。さて、自然に出会いたいとは何か?

卑近な例を挙げると、マッチングアプリを嫌うのはその習性ではないか。運命の出会いを求めるというと、他人にバカにされそうな青くさい考えと思うだろうが、わたしたちの根源に根差した衝動なのだとするとそう他人を笑えないだろう。

私たちの行為は作為性を嫌う。というより、作為性を見透かされることを嫌う。それは運命的でなければならない、と言えそうである男女関係においては、狙って異性を手に入れるのでなく、たまたま出会った人とたまたま恋に落ちたいと願うだろう。(そしてそれは叶わない。)そうした時、どうするか。運命(必然性)を上手く「演出」するのである。

ここから、舞台俳優以外の人間も「演じる」という行為と無関係ではないことが導ける。普段から複数のペルソナを使い分けているという話に既に馴染みがある人も多いだろう。

仕事をするときには職業の仮面(仕事の必然性を求める)が、恋人と居る時はパートナーの仮面(恋愛の必然性を求める)がある。

われわれは、仮面を通じて初めて、見知らぬ他人と上手くやっていく演技を強いられる。というより望んで仮面を被り、演技をするわけだ。初めは必然性のないバカバカしい行動に思えることが、段々と自分の手で状況をコントロール出来るようになると、心の中にペルソナが作られていく。大根役者が成長して、自然に演技が出来るようになる。必然性と作為性のバランスが取れるようになってくるのである。

究極的には現実生活で自分と全体が必然性に満たされることはない。そのことにわれわれは疲れている。全体とは、人生に関わる全ての事柄である。
現実は劇とは違い、起きるべき時にイベントは起きない。早すぎたり、遅すぎたり。タイミングが噛み合わず、バラバラに出来事が起こる。タイミングを見計らうには、作為的に行動を起こさなければならない。イベントだけでなく、内面の実感も追いつかない。大事な人が亡くなるという、ドラマティックなイベントでも、その場で泣けるとは限らない。それを解釈できるのは10年経ってからだということもあり得る。

だからこそわれわれは、物語を求めてやまない。物語に確固とした役割と必然性を見るからだ。最近、同じ時期に『物語が世界を滅ぼす』という本を読んだが、そこには

(物語中の)危険の迫った少女を傍観している人のそれではなく、あなた自身が危険の迫った少女であるかのように、脳は活動している。
ストーリーが世界を滅ぼす 第1章

とある。


つまり、われわれが物語の登場人物に感情移入する時、その人物に起こるであろう身体的な変化が読み手にも起こることが科学的にも解明されつつあるようだ。しかし、そんな無粋なことが研究されるもっと前に福田恆存は人々が物語を求める理由を喝破していたのだ。

そうなると、人生が劇的であることを願う人類は今日も物語の中に必然性を夢見るしかないのか。

いや、希望はきっとある。上でも述べたが、人生に全体感をもたらす必然性を得るには仕事しかないように思う。仕事は、少なくとも自分が選択したという必然性の中で行われるだろう。その点、日常生活の行動よりは必然性に近いはずだ。必要なのは、仕事で創造性を発揮してなんらかの成果を出すことだ。そうすることで、自分だからやり遂げたのだと、この仕事をやるためにここまで頑張ってきたのだと心から思える瞬間があるだろう。

そう信じて今日も仕事に精を出そうと思う。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,141件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?