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◆遠吠えコラム・漫画『ONE-PIECE』1088話「最後の授業」~「トロッコ問題」まだ続けるの?(仮)

 週刊少年ジャンプの人気連載漫画「ONE-PIECE」が最終章を迎えている。長年の謎が次々と解き明かされていく怒涛の展開に、往年の愛読者である私は毎度衝撃を受けている。

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 だが、最新号(2023年第34号、2023年7月24日発売)の第1088話「最後の授業」は、別の意味で「衝撃」が走った。

 「老い先短いジジイは見捨ててよし!」

 これは、「伝説の英雄」の異名をもつ海軍中将ガープ(主人公ルフィの祖父)が、若い海兵に向けた講義で発した言葉だ。どういう文脈での発言かというと、猛獣だらけの島に老人と赤ん坊が取り残されていて、自分(作中ではコビー大佐を指す)は2人乗り用のボートに乗っている時、どうするか?という課題に対する答えとして提示された。老い先短い老人よりも、将来の可能性がまだまだ無限にある赤子の方を守るべきだというのだ。この発言に対し、他の海兵が苦言を呈する様子が回想として作中に挿入されていたが、ガープは自身の言葉通り、「老い先短い」自らが犠牲となり、窮地に陥っていた若い海兵たちを救う。

 ただ、自分は彼の思想や選択を野放しに称賛できない。いや、彼の思想や選択をあたかも美徳であるかのように描き切った作者や、その展開にゴーサインを出した編集者の方針に対して異議があると言った方が正確なのかもしれない。仮にどちらか一方しか助けられないのだとしても、命に優劣をつける「正義の組織」なんて、全然かっこよくないと、私は思う。こういうことを言うと、「何を馬鹿なことを言っている!非情な選択を迫られた時に、ためらいなく判断する冷徹さこそがかっこいいのではないか!」といったような反論が返ってきそうだ。「冷徹」とはものの言いようで、どちらか一方を切り捨てる選択って、実は一番安易な選択なのではないか。だって、足手まといになる方を切り捨てれば身軽になって動きやすくなる。そうすればもう一方を確実に助けやすくなるから、すごく楽だ。ボウリングのスプリットを思い浮かべたらいいと思う。2つ(あるいは2束)倒すのを狙うよりも、どちらか一方、とりわけ本数が多い束を確実に狙う方が楽でしょう。そんな安易で楽な選択をするヒーローって果たしてカッコいいか?老いも若きも、強き者も弱き者も、みんな助けてなんぼの正義でしょうが!

 サム・ライミ版の「スパイダーマン」(2001年公開)で、今でも印象に残っているシーンがある。敵のゴブリンが、スパイダーマンの恋人エム・ジェイと、ロープウェイの乗客数十人を人質に取って「どちらかを助けてやる!さあ選べ!」って、文字通り、非情な選択を迫る。これに対してスパイダーマンことピーター・パーカーはどのような選択をしたか。なんと、両方助けるのだ。ピーターは両方助けたことによって隙をつくってしまい、ゴブリンの攻撃を食らって深手を負ってしまう。でも、おれは、ゴブリンが「設定」した非情な選択には乗っからず、命に優劣をつけることなく恋人も乗客もどちらも救ってやろうと傷つきながらもがくスパイダーマンが、心の底からかっこいいと思った。「ジジイ」を冷徹に切り捨てるガープ中将よりもよっぽどかっこいいよ。かれこれ20年前のアメリカ映画はもうこの地平にいるのだ。かたや令和の大人気漫画がまだ古臭い「トロッコ問題」を振りかざして「かっけー」とか称賛しているファンに囲まれているのを見ると暗澹たる気持ちになる。

 「非情な選択」を迫られた時に、あえて困難な理想へとひた走るヒーローが登場するのは、なにもアメリカ映画だけではない。もうかれこれ3年前に観た韓国映画「新感染半島」(2020年)で、ゾンビの群れが迫るクライマックスのシーン。足を怪我している女性キャラが、自分の子どもたちを主人公に託して自らおとりを買って出るが、主人公は、子どもたちを無事助けた後、足を怪我している女性を助けるためにゾンビの群れに飛び込んでいく。いいか!日本のエンタメ業界よ!これが世界だ。誰かを救うために誰かを犠牲にするヒーローなんて、最早全然かっこよくもなんともないんだよ。

 ほんの少し前の話だけど、アメリカ・イェール大学アシスタントプロフェッサーの経済学者成田悠輔氏が、日本で高齢化が進み、将来世代の社会保険負担が増している問題に対する解決策として、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と発言し、海外メディアが取り上げて物議をかもした。発言自体は2021年ごろのもので、その間日本のメディアでは特に問題とはならず、海外メディアが取り上げたことで問題化した。海外メディアの指摘で初めて日本国内の人々が問題に気付く構図は、日本がいかに遅れているかをよくよく表している。高齢者、あるいは障がいのある人たちといった社会的に弱い立場にある人々を切り捨て、彼らが享受するはずだった資源を別の人、とりわけ将来のある若者らへ配分しようという考えに基づく妄言をする人が、つい数か月前まで日本ではメディアのど真ん中でもてはやされていた。そんな危ういメディア環境と符合するかのように、これもまた日本の漫画文化のメインストリームで、老人が勇んで若者のために犠牲になることを美徳とするかのようなストーリー展開がもてはやされている。これは単なる偶然か。

 一部を切り捨て、ある集団の存続を図ろうという考えは、もうかれこれ半世紀以上も前にドイツという国で台頭し、国政の要となった。1933年に首相となったヒトラーは、貧しいドイツ人の救済を標榜しながら、国内のユダヤ人を大量に虐殺した。世にも悪名高い「ホロコースト」だ。ヒトラーが虐殺したのはユダヤ人だけではない。障害のある人や重い病気を抱えた人々なども大量に安楽死させている。自国民を第一に思い、弱き者を切り捨てた果てにドイツ国はどうなったのかといえば、滅んだのだ。つまり、誰かを救うために誰かを切り捨てるという思想は、国を亡ぼす思想なのだ。ドイツ国が歩んだ愚かな歴史への反省に立ち、第二次世界大戦後の人類は歩み始めたのではなかったか。今回取り上げた件は、人気少年漫画の一登場人物の発言の一部、20年以上の連載の一展開に過ぎないのかもしれない。それでも多くの読者がおり、影響力は計り知れない。そんな計り知れない影響力の下、ともすれば国をも滅ぼす危険思想にも結び付きかねない登場人物の考えや振る舞いの美化を広く発信することの危険性について、同作の長年の愛読者の一人として指摘しておかなければならないと思った次第である。

 ガープ中将が切り捨てようとしている「老い先」だって、きっと捨てたもんじゃないと思う。おいしいものを食べて幸せな気分になったり、素敵な人と出会ってときめいたりと、短い老い先なりに、価値のある明日が訪れるかもしれない。それと同確率で嫌なことも起こるかもしれないが、生きていれば、前者のような幸せな出来事に巡り合えるチャンスはゼロではない。しかし、死んでしまったら、その可能性はゼロだ。

 人生は一度きりとはよく言ったものだが、老いも若きも平等に訪れる明日だって皆等しく一度きりだ。高校生の文化祭マジックも、60歳のジジイの熱海不倫も、全部一回きり。その一つ一つが各人にとっては尊い。それを「老い先が短い」という理由でジジイの熱海での恋路を邪魔する権利など誰にあろうか。

 最早話が飛躍しすぎて何が言いたいのかわからなくなってきたが、これだけは言いたい。「ONE-PIECE」の1088話は、まだ、挽回できる。そのポイントとなるのが、ガープ中将の愛弟子コビー大佐だ。未来のある若者のために老兵が犠牲となることをいとわないガープ師匠に対し、コビーが必ずしも同じ答えを出すとは限らない。1088話の末尾でガープは「消息不明」とだけ示され、生死はあいまいにされている。ワンピースにおいて「消息不明」とか「生死不明」は、大体生きていて、後々になって登場することが多い。だから、コビーが今後、ガープが消息不明となった海賊島ハチノスに乗り込んで大暴れして、ガープを助ける展開があり得るかもしれない。その時ガープは、コビーに対し「バカもん!老い先短いワシのことなど放っておけ!」と怒るかもしれない。そこでコビーが一喝し、師の間違えを正して、真に成長した姿を見せる!ここのコビーのいいセリフが思い浮かばないのがもどかしいが、いかがか、週刊少年ジャンプの編集者の方。
(了)

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