見出し画像

◆遠吠えコラム・「裸のムラ」(監督・五百旗頭幸男)・「イスラム教徒の家族に見出した持続可能性」(映画パンフレットの表紙)

 映画「はりぼて」の五百旗頭幸男監督の第2作となる「裸のムラ」(2022年、石川テレビ)を新潟県上越市の高田世界館で鑑賞した。地元の長野県では2月上旬に公開するが、待ちきれず足を延ばして観に行ったが、すごくおもしろかった。

 本作は、富山チューリップテレビから石川テレビに「移籍」した五百旗頭監督が、新型コロナ禍真っ只中の2020年から2022年初頭の石川県内を取材したドキュメンタリー。感染拡大防止のため県内外の往来を規制した緊急事態宣言、7期28年にわたる谷本正憲県政の終焉と、揺れ動く県内で暮らすイスラム教徒の家族や、キャンピングカーで暮らす「バンライファ―」の家族の生活を映し出している。


 谷本県政、バンライファ―、ムスリムの家族と、概ね3つの要素が並行してドキュメンタリーは進行していく。私は3要素のうち、谷本県政を作中でどう位置付けてよいか、正直わからなかった。過言すれば、谷本県政は作品の背景に過ぎなかったような気もする。だが、全く必要なかったかと思えばそうでもない。ムスリムの家族が生きる社会、バンライファ―たちが逸脱しようともがく社会を形成していたのは谷本県政にほかならないから。ただ、私が着目したのは、バンライファ―とムスリムの家族のドキュメントにあって、両者の生き様の違いから、日本社会を生きる上での「希望」のようなものを見出せた気がした。


【イスラム教徒に見出した「希望」】

 森喜朗元総理や若き日の小池百合子、麻生太郎、野田聖子といった名だたる「役者」が登場した本作において、私がベストアクター賞を贈りたいのは、イスラム教徒の家族「松井家」の妻ヒクマさんだ。彼女の日本社会を捉えた明晰さと皮肉とユーモアが入り混じった言語表現がとにかくすごい。特に印象的だったのが、「イスラムより日本の社会の方がよっぽど窮屈だよ」という言葉だ。イスラム教徒というと、肌を覆う女性の衣装ヒジャブや日の出から日暮れまで毎日断食する「断食月(ラマダン)」などが象徴するように、男尊女卑で窮屈なイメージがある。ましてや日本で暮らすムスリムは、2001年の同時多発テロ事件以降、厳しいまなざし、差別にさらされている。しかし、本作を見進めていくとむしろ、青空の下、会社や学校などの組織から逸脱し、のびのび暮らすバンライファ―の家族の方がよほど窮屈に感じられた。


 バンライファ―の中川生馬さんは、大手企業の広報マンだったが、会社組織で生きることに疑問を覚え、自分らしく生きることを求めてキャンピングカー暮らしを始めた。キャンピングカーで生活しながら、前職でのスキルを活かしてフリーランスの広報マンとして6つの会社の広報を担当している。海辺の波音を聞きながらゆったりとテレワークしているかと思えばとんでもない。家族団らんの時間にも仕事の電話がかかってきたり、プレスリリースの作成作業に追われたりと、何かと忙しそう。妻結花子さんが語るように、バンライフを手に入れるに至るまでも並々ならぬ苦労があったことだろう。


 パソコンに向かう父をよそに、長女結生ちゃんは一人海辺で遊ぶ。(恐らく)学校へ通っていないためか、自由な時間を謳歌しているように見えるが、父親からは日々「宿題」を課される。その一つが、「日記」を書くことだ。結生ちゃんは4歳から日記をつけている。タブレットで日記を打ちながら、パソコンに向かう父親の背中に時折不満げな目線を向ける。父親は仕事に夢中で全く気付いていない。結生ちゃんはある日、母結花子さんに、日記を書きたくないことを打ち明けるが、結花子さんは夫生馬さんに娘の不満を直接伝えることができない。何気ないシーンから、家族内の力関係がにじみ出る。キャンピングカーの狭さが、娘や妻が感じているであろう窮屈さを際立たせていた。「アメリカ式の生活をしながら、何か変なところで古い価値観を振りかざしてくる」とこぼす結花子さんの言葉は、権力的にふるまうあまねく男たちに向けたものとして、胸に深々と突き刺さる。


 もう一人のバンライファ―の秋葉博之さんも、14年務めた会社をリタイアし、自由を求めてキャンピングカー生活を始めたが、緊急事態宣言下で県外ナンバー車への風当たりが厳しく、他人の目を気にしながらひっそりと車中泊する場所を探してさまう。秋葉さんは中川家と異なり、定職には就いていない。会社組織へ属することに対する忌避からだろう。「もう行くとこまで行ってみようと思う」(たしかこんなセリフ)と妻洋子さんがつぶやくように、彼らの生活に持続可能性を見出すことはできない。


 地域社会から浮遊していくバンライファ―たちに対して、ムスリムの松井家はというと、厳しい教義を守りながらも、社会とのつながりの中で生きていく。妻ヒクマさんは介護施設で働いている。彼女が身を置く介護の現場は、慢性的に人手不足で、外国人の就労が比較的多い。言語や文化の違いから、日本での就労が難しい外国籍の人々にとって、数少ない働き口だろう。そんな職場での彼女だが、利用者からものすごく頼りにされていて、「あんた日本人にならんの」と快く受け入れられている。夫の松井誠志さんは、飴工場で働き、妻の実家に仕送りもしている。家族のため、妻のために日々働く彼の姿に、工場の社長も目を見張るほどだ。


 夫誠志さんは、取材者の五百旗頭さんに「昔、さんざん好き勝手やったから」と照れ笑いする。家族のため、夫のため、妻のためと、ムスリムの松井夫妻の生きる動機には、「他者」がいる。この他者性の骨子には、イスラムの教義があるだろう。先述したラマダンは、断食を通じて飢えた人への共感をはぐくむとともに、親族や友人らとともに苦しい体験を分かち合ってムスリム同士の連帯を強める意味があるという。日が暮れると、互いに食べ物を持ち合って皆で食事をするというイベントもある。いわば、助け合いだ。時に厳しい差別にさらされながらも、互いが助け合って生きる松井家の生き方、ムスリム式のコミュニティーの在り方にこそ、矛盾に満ちた社会を生き抜く光明を見出せないだろうか思った。


 一方、バンライファ―の生き方はどこか自分本位に感じる。時折、娘や妻が夫に付き合わされているような印象を受けることさえあった。一度は距離を置いた窮屈なコミュニティーを、自ら再生産してしまっている。自由を求めて社会と距離を置いたものの、ちっとも自由になれていない。「自己実現」や「自分らしさ」に捕らわれすぎてむしろ不自由にさえ感じた。

 大阪大学社会経済研究所を中心とした研究グループが、あらゆる人種を集めて公共財を作るゲームを実施したところ、日本人が他の人種と比べて「意地悪」との結果が出ている。そしてその意地悪さこそ、バブル期以降の日本社会の低迷を生み出しているというのである。バブル期以降の社会を規定してきた日本政治を担ってきたのは誰か?何党政権だったか?「絆が大事とか言ってるけど今こそ発揮する時じゃないのか?」(確かこんな趣旨のことを言っていた)と、ヒクマさんが投げかける問いが、日本社会に、日本社会を規定する者たちに突きつけられている。
(了)

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?