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お骨ぽろぽろ

ひいばあちゃんが死んだ。ひいじいちゃんが死んだのが12年前だから、死への直面は本当に久しぶりだ。2週間前、法事で訪れたばかりの香川をまた訪れることになるとは思いもよらなかった。

ひいばあちゃんには5年会ってなくて、様変わりしてたらどうしようと、暫く顔を見られなかった。でも棺を覗いたら本当に昔と顔が変わらない、髪がふさふさで綺麗なおばあちゃんが眠っていた。その瞬間、思い出が溢れる訳でもないのにポロポロと涙が溢れてきた。頬に触れるとものすごく冷たくて全然ポロポロポロポロが止まらない。ひいばあちゃんに泣いてるのか、目の前に死んでいる人間がいることに泣いているのかも分からなくて、ただただ壊れた水道管みたいになった。

みーんな泣いてた。ひいばあちゃん、愛されてたから。みんなぼろぼろだった。なのに、喪主であるおじいちゃんだけは涙を見せなかった。笑顔も、悲しみも、顔に宿さずに粛々と責任を背負っていた。長男のおじいちゃんはずっとずっと責任を背負ってる。孫にも兄弟にも、きっとその悲しみと愚痴をもらさない。ひいじいちゃんが死んだ時のひいばあちゃんも、感情を表に出さなくて、喪主としての役割をただ全うしていた。私は長女なのに、いつまで経ってもおじいちゃんやひいばあちゃんのようにはなれないし、何も責任なんて負えなくて、なんだか情けなかった。

死は特別なものではなくて、新たなる修行への旅立ち(我が家は真言宗です)で、文化的なもので、死を悲しまない理由は沢山ある。でも実際目の前の家族が死を悲しんで泣いてるのを見てると、やっぱり理屈抜きで死は悲しい。今もだし、これからへの不安が強くなる。いつか、いつか直面しなきゃいけないものを考えてしまう。そうふるとやっぱり辛くて顔がぐしゃぐしゃしてしまう。

まとまらなかったが、何が言いたいかというと一度、お遍路に行きたい。泰山の心と、辛抱強さを持てる女になりたい。いつか心安らかに見送り、見送られる存在になりたいものだ。
でも、今はまだ無理だなと思う。

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