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溺れる者は藁をもつかむというけど実際に自分がつかんでいたもの

5歳くらいに溺れた話。

伯父と従兄弟と那珂川に連れて行ってもらった。

上流部だったので川幅は狭く両方とも岸にごつごつした岩が目立つ。伯父は時々ここで釣りもやっているし、自分もこれまで何度もつれてきてもらっていた。私はここで靴下を片方落とした。

岸から直ぐの距離だけど自分にとっては深い深い淵に靴下は佇んでいた。

伯父に もう帰るよ 靴下はしょうがないよ と言われたけど

靴下に対して、置き去りにすることに申し訳なさを感じてしまい、岸に張り出た岩の上からずっと靴下を見つめていた。

そこから自分はダメもとで靴下を取り返そうとして川に落ちて溺れるのだが、

何故か流される様子と、近くにいた人が気づいてびっくりして叫んで伯父に知らせる様子を覚えている。溺れながらどうやって見ていたのだろう、聞いていたのだろう。

溺れて苦しいとか思う間もなく 伯父に抱えあげられて助かった私がしっかりと握っていたものは小さくて細くてまだ少し硬めのタケノコだった。

溺れる者はタケノコをも掴む と私は実体験を踏まえて言いたい。

溺れながら掴んでいたという事もあり、私はそのタケノコへ神々しいものを感じて、縁起物として後生大事にしようと固く誓った、そんなこんなでタケノコと一緒に祖父伯父宅へ帰った。あれほど執着していた靴下のことはすっかり忘れていた。

翌朝になって、あのタケノコはどこへ行ったのかと祖母へたずねたところ、

あのタケノコは伯父の弁当のおかずに使ったよ。もう弁当を持って仕事で出かけたよ。 と言われた。

それを聞いて残念には思ったが、よく考えたら実際に私を助けたのは伯父だから、あの神の使いであるタケノコを食べる権利はある。おいしく食べてくれるならかまわない。という事で簡単にタケノコへの執着は無くなった。

今から考えると川の中から拾ってきた訳の分からないタケノコをわざわざ食べるはずが無いので、あれは大人の方便というやつで、適当に捨てたんだと思う。


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