因果応報ってあるの?
こんばんは。ちゃたです。
因果応報について皆さんはどういう考え方をお持ちでしょうか?
改めて辞書で調べてみます。
要約すると、やったことは返ってくるぞってことですよね。
さてここで今日の表題、
因果応報ってあるのでしょうか?
考えていきます。
お釈迦さまは悟りを開かれた方なので、まずはその特筆すべき状態“悟り“とは何かを調べてみました。
迷いの世界を超えて...。
迷うのは一体何でしょうか?
お釈迦さまが教えてくれた以下の言葉をよく耳にします。
つまり、悟りとはそれを超えた状態。
心があれば彷徨うこともあるが、それすらも自己ではなかったと腑に落とされたのだと思うのです。
心が自己ではないならば、幸も不幸もないですよね。
幸も不幸もないならば、何も返ってくることはない。
お釈迦さまは、すでに因果応報から離脱されてるところにいる。
因果応報があるんだよって言葉は、特定の人々に向けてお話しされてるということになると思います。
私たちとお釈迦さまとの大きな違いは悟りを開いてるか、そうじゃないか。
言い換えると、“自我“もしくは“彷徨う心“を持つか、持たないかだと思うのです。
例えばで考えていきます。
自分の中に憎しみや怒りを感じながら行動を起こしたとします。
もしくは、相手の幸せを願って何かを起こしたとします。
因果応報があるならば、それは自分に何かしらが返ってくるということ。
ところがですよ、心があるということは、その時すでに自分の中には、怒り、憎しみ、幸せを感じる心を持っているということです。
つまり、外に感知した時点で、それは内在しているので、その心は間違いなく自分の持ち物。
その持ち物は自分のそばを離れないメガネのようなものなので、ただ移り変わる世の中に、それらのものを見出し続ける。
そのメガネを持ち続ける限り、それらは自分の財産ということです。
つまり、直接的に悪意もしくは善意を向けた相手からではなくとも、あらゆる方向からそのメガネを通じて、同じ量の応酬がくる。
いえ...感知した時点で、苦しみの心もしくは喜びの心が生まれているので、因果応報は完結してるとも言えますよね。
ただ自分1人の中で、周りの如何やタイミングによらず、因果応報が見事に完了される世界に生きていることになります。
つまり、結論は彷徨う心を持ち続ける限り因果応報はあるってことですね。
このルールからの一人勝ちルートは、ただ清らかな心を持ち続ける。
もしくは、心を超越してしまうこと。
裁きの概念をもつ社会にいては、清々しいくらい手厳しいルールですね笑
お釈迦さまの最後の言葉が沁みます。
今日もありがとうございます。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?