頭を掻いてくれるのも神様かもよ。
こんばんは。夜な夜なちゃたすけっす。
とんでもないことに気がついてしまったので、緊急で文章を作っています!なんつって笑
真我からの行動と自我からの行動、どう見分けたらいいんだい!?ってずっと思ってたんです。
答えがやっと腑に落ちたので書きまーす。
私的答えは、無心でやったことですね。
脳内おしゃべりとか、心がグラグラしてる時の行動以外かなと。
真我に至ると全部あるので、自我の欲望とかないんですよ。
あれがやりたい、これがやりたい、あれが欲しい、これが欲しい、そういうのがなくて、ただ自然の一部として調和する自分が在るだけなんです。
なので渇望的な感じでやることは、ちょっと自我ちゃんなんじゃない?って思います。
何でこんなこと言えるかと言うと、自我がなくても自分のことをお世話する誰かの存在に気がついたからです。
自我は思考や感情を使ってくるので、それをポイポイっとすると、脳内がシーンとなります。
なのにお水を飲もうと思うと、沈黙の内にコップを手にしようとしてる身体がいるんです。
当たり前に過ごしてたら見えなかったけど、これってとっても不思議に思いませんか?
言葉で命じたわけじゃないし、お水も私が飲みたいと思おうとして湧き起こったんじゃないのに、勝手に水が身体に注ぎ込まれて、私は生きている。
一体誰が身体を動かしてるんですかね...
お水を取る時にどれくらいの力加減なのか、そんな精巧な動きを指示できますか...
これもう誰かに生かされてますよね?
そう見ると、全ての行動に神の意思があるとしか思えないんですよ。
頭を掻いてくれるのも神様だし、美味しいアイスを求めて近くのコンビニまで歩いていかせてくれるのも神様。
細々とお世話してくれています。
すごい愛されてますよね笑
私たちはそれをただ受け取っていればいいだけの話だったんですよ。
ますます“私であること“を辞めてもいいなと。
と、ここまで書きましたが、脳内おしゃべりやめるまで神様に会えないかと言うとそうでもなくて。
大雑把に言うと全部に神様おるんす。
自我からも真我からも、結局全部が神様のやーつです。
ただ、自我が自分だと思ってると、神様の存在を感じにくくさせるので、その奇跡を知覚しにくくなるんです。
でも結局はそれはそのように進みます。
どっちにしても神様なんで安心して生きていけますね〜!
今日もありがとうございます。
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