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日向坂文庫2021#9(河田陽菜×相沢沙呼『ココロ・ファインダ』)


noteを開いていただきありがとうございます。

ちゃすいです。


今回は河田陽菜さんが表紙となり、相沢沙呼さんが書かれた『ココロ・ファインダ』の感想を書いていきたいと思います。


登場人物
・野崎鏡子(ミラ):写真部の高校2年生。顔にコンプレックスを持っている。
・日比野香織(カオリ):写真部の高校2年生。シズの写真のモデルによくなるが、とあるコンプレックスを持っている。
・天野しずく(シズ):写真部の高校2年生。物静かな性格だが写真に対して人一倍熱い思いを持っている。
・秋穂:写真部の高校1年生。他の人とかかわるのが苦手。



1. あらすじ

写真部に所属するミラ、カオリ、シズ、秋穂の4人。
それぞれに何らかの葛藤やコンプレックスを心に秘めている。
そんな4人の想いが時にはぶつかり合いながらも自分を捉えなおす青春物語。



2.感想

※ここから先はネタバレアリですので、ご注意ください。

この本は「コンプレックス・フィルター」「ピンホール・キャッチ」「ツインレンズ・パララックス」「ペンタプリズム・コントラスト」の4つの章からなります。

単独で読んで行ってもいいですが最初から順番に読んだ方が人間関係を押さえやすいかなとは思います。

カメラの知識がない人でも少しとっつきにくい箇所があるとはいえ、楽しく読める作品かなと感じました。


さてまず、コンプレックスに苦しんでいたのはミラです。
「ごわごわの癖毛、ニキビのできやすい肌、一重の瞼、どこをどうしたって自分の顔を見るのは嫌だった。せめて誇れるところといったら、少し高めの鼻くらい?」(7頁)
と自分の顔を見るのは嫌であることを告白しています。

その対比に描かれているのがカオリです。
「太陽の輝きを浴びて、肩まであるふわふわと癖のかかっているカオリの髪が、赤く光る。わたしと違って、可愛らしい癖毛を持った彼女は、二年生になってからその長所を活かすようにパーマをかけている。」(10頁)

よくシズのモデルになったり、男子からの評価が高かったりとクラスの中心であることも描かれています。
ミラ自身もカオリを一緒に昼ごはんが食べることができることを一種のステータスであると述べています。
しかしそんなカオリだがあるとき、部活に顔を出さなくなりました。


シズとなんかあったようだが、よく分からない。
何かを消したというが、誰に聞いてもわからない。

ですがミラは写真を見比べることで消えたものを発見します。
カオリのそばかすをシズはデジタル処理で消していたのです。
そばかすを消した方がより可愛くなる、そんな理由でそばかすを消したようです。


カオリ自身が気にしているコンプレックス。
化粧で頑張って消すようにしているが、完全には消すことのできないものであると。
それを同じ女子に消されるとは思ってなかったようで、少し意地になってしまったようです。

またそんなことを聞いたミラはかわいく写るカオリも実は陰で努力をしていることを知ります。
それを聞いたミラは「どうやったら可愛くなれるか」とカオリに聞くと、自分のことを好きになるしかないと。
そんな言葉を聞いてミラも少しがっかり?しつつも力が抜けたようです。


とまあ「コンプレックス・フィルタ」の概略はこんな感じでしょうか。
自身のコンプレックスを気にしてしまい、自信が持てない。
そんな人にぜひ読んでほしい内容です。

なんとなく日向坂46の「ソンナコトナイヨ」に似ている気もします。


さてコンプレックスの部分を消すという加工は人の気にしている部分に土足で入り込むようなのであるため、そう簡単に他者が行う者ではないと言います。
それゆえ、カオリとシズは喧嘩になるわけで、この喧嘩の中でミラは素のままを見たいと言っています。


一方で、現代ではフィルターが流行りに流行っています。
InstagramやTiktokなどではフィルターなしの画像はないんじゃないかと言われるほどです。
調べてみるとInstagramに関しては同じ2010年にApp storeにて配信開始。
フィルターに疎い私でも知っている、「snow」は2015年ごろリリースとのことで、この「コンプレックス・フィルタ」の初出が2010年ということなので、画像加工が流行る前に出された本ではありますが、皮肉なことにミラの想いとは逆に現代では画像加工が流行ります。

素のままの、加工などをせずファインダを通して見えた景色をそのまま見るのとパソコンなどで加工された画像を見るのとは違うということがこの物語では言われています。


ただ少し疑問なのが、カメラで撮るときに色々と光の量を調節したりすることや、写される人も化粧をしたりすることは、「加工」にならないのかと。
目の前の景色や人物の写真を撮る人が見せたいように撮ることと、撮られた写真を見せたいように加工すること、これはどう違うのでしょうか。

私としては、少しでもよく見せようとしている点においては同じではないかと思います。
建物を撮るときに背景をぼかし建物がしっかりと写るようにすることは、対象の建物をよく見せようとする行為です。

また化粧をしたり、人物の写真にフィルタをつけたり、加工したりすることもその人をよく見せようとすることです。
どういう違いがあるのでしょうか。


以前日向坂46の高本彩花さんが「美を追求しなくなったら終わり」ということをおっしゃっていました。
また化粧は研究するという言葉があるように、自分の顔の特徴などに合わせて化粧を変えていき、自分の美を追求していく。
このこと自体を否定するつもりはありません。
むしろどんどんやっていけばいいと思います。
化粧すること自体が、気分転換になったり楽しいという方がいますし、化粧によっていろんな姿になれるというのは大きな魅力ですし、見ていてこちらも感心させられます。

またカメラで撮るときに光を調節するといったのも同様でしょう。
そしてこれはフィルタにも当てはまるでしょう。
自分を誰かを、いや、人でなくてもいいです。
それらを良く見せるためにどういうフィルタがあるのか探し出し、時には作るかもしれませんが、フィルタを使って見せるのも美を追求しているといっていいのかなと。


それでも強いて言うなら、「誰が」その加工をするかということなのでしょうか。
自分でするのか、それとも自身の触れられたくない部分を他人に加工されるかといったことでしょうか?




とまあ、いつになく疑問が先行する文章になってしまいました。

カオリが傷ついたことに、私ちゃすいが寄り添い切れていないことが原因でしょうか。
時間が経ってから再度読み直してみる必要がありそうです。


それでは最後までお読みいただきありがとうございました。

失礼します。

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