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語彙力が足りない化け物の手記

語彙力が足りないと言う時、人は何を憂いているのか。
たしかに、この現状を表す言葉が見当たらないというような瞬間に「語彙力
」が足りないと言ってみる時があるだろう。

しかし、世界は言葉で切り分けていくものならば、切り分けていく道具そのものが不足しているのならば、世界を突き進むためのエンジンが不足しているってことになる。

表現したい対象を表現できないと嘆いているが、言葉があって初めて表現したい内容を理解できるのだから(そうではない対象も想定できるが)、この場合、言葉を知らないのではなく言葉を忘れているだけなのだ。

言葉にすることでようやっと意識できるものごとが大半だとするならば、感情や身体感覚を理性に落とし込む作業になんらかのエラーが発生してしまったってことだ。開発者が想定済みのエラー。

語彙力が足りない時、そこには想像力も足りていない。

スポーツ選手が子供達に特定の技術を教えようと四苦八苦している時、自分の中に落とし込んでいるその感覚を言葉にしようとしている時、ここで試みられているのはなんだ。
複雑な現象も単純な現象も、言葉で共有することは難しい。

意識の土台にあげるための下準備が語彙力なのだとすれば、通りの植物が判別できない私に、植物を包括した世界を語る資格がどこにある。

筋肉の名称だとか、擬音語だとか、精神論だとか。

とぼとぼと引き返した逃げ道に落ちていた想像力というオールを手に取り突き進んでみる。

でも、それらを手にして突き進む先に希望がなければ進む意欲だって湧かないよな。だから、創作は人生の肯定なんだ。

私が下を向き、仕方なく時間の流れに沿って歩かされている時、私には語彙力が足りない。

誰かを想うことでしか人は進めないのではないかと考えると、怖くなる。

この世界に私一人だけが生きていたら、愛や正義はどんな形をしているだろう。この世界が暗闇で、音もなく、いかなる暖かさも感じないとしたならば、私は立派でいられただろうか。

誰かの動作を通してしか、愛や正義を感じられない。
身体があるから思考もあって、愛や正義も刺激でしかない。

伝えるために言葉があって、言葉があったから、私には概念が感じられる。

語彙力が足りない時、愛も足りていない。

だが、あの子が語彙力が足りないと言っている時、溢れ出す生を生き生きと感じているような声色なんだ。なんでだろうね。私に光は見えないよ。あなたには何が見えているのだろうか。

あの子は知っているのだ。知っていて忘れているのだ。あの子の語彙力が無いと私の語彙力が無いは別物なのだ。

私は一度も知らない。語彙力がない。愛を知らない。

人生を生きていたいと、思えない。



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