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卒論投稿①|我々は「生まれてきてしまった」事実とどう向き合うべきか?

先日は学科の後輩達にオンラインという形で追いコンを開催してもらい、4年間の思い出を同輩と振り返る良い機会となりました。大学最後の講義、そして卒論発表も終え、ようやく落ち着きましたので、大学生活の集大成たる卒論の内容をnoteにまとめようと思った次第です。


0.はじめに

noteへの卒論投稿を思いついた当初は、本文をそのまま掲載しようかと考えていました(その方が楽なので)。しかしながら約3万字のテキストをコピペしてあとは各自ご自由に読んで下さい、というのはいささか親切心に欠けるであろうことを鑑みて、卒論発表で用いたスライドを用いながら紹介していこうと思います。また内容の長大さから記事を2部構成としているので、是非順番にご覧下されば幸いです。


1.問題の所在

さてまずは研究の発端からお話ししたいと思います。今から5年前の夏、神奈川県相模原市で起きた凄惨な事件を覚えていますでしょうか。同市の障害者施設、津久井やまゆり園の入所者19人が、元職員の男性によって刺殺されたあの事件です。

この事件について神奈川新聞は、「事件は派生的に「生きるに値しない生命はあるのか」という根源的な問いを、わたしたちに投げかけた」と報じました。犯人が公判で述べた障害者に対する差別に対して、社会は確かに抵抗感を覚えたに違いありません。命を自身の預かり知らぬところで奪われるようなことは、どのような理由があっても許されない。それは正しいのです。

しかしながら、重度の障害を負って生まれてきた彼らは、果たして生まれてきて「良かった」と本当に言うことができるのか。そういった疑問が浮かび上がりました。

そして相模原の事件について調べる中で出会ったのが、卒論のテーマでもある「反出生主義」となります。反出生主義の思想とは、一言で「子供をうむべきではない」という考え方。人間は存在するだけで何かしらの害悪を被っている。その害悪を被るくらいなら、我々はもとより存在するべきではなかった。こうしたロジックを分析哲学的アプローチで紹介したのが、南アの哲学者ベネターでした。

反出生主義は人間の、あるいは生命の定めとでも言うべき出生サイクルを否定する大胆な思想です。我々はこうした自分自身の存在を揺るがされるような考え方を直観的に否定したくなるかもしれません。しかしながら、人は無条件に生まれてくるべき、といった出生全肯定的な社会的に「正しい」思想は、果たして現実的であると言えるのか。たとえ重度な、回復不能な障害と一生付き合わなければならないような人でも、等しく生まれてくるべきであると言えるのか。今回の研究動機はそうした出生主義的思想に対する懐疑を発端としており、「生きられるに値しない生」を提唱する反出生主義の理解と、現実世界において我々は出生をどのように規定すれば良いのかという仮定を研究視点としました。


2.ベネター以前の反出生主義

まずは反出生主義の歴史について振り返ってみたいと思います。反出生主義という言葉は名付けられていないにしろ、出生否定の考え方は古来より世界に存在していました。例えば宗教の面では、「輪廻転生」「一切皆苦」の思想があるように、仏教は生まれ変わり続けることによる「生」の苦しみを思想の根本としています。また哲学においても、例えばショーペンハウアーが生きていく中でぶつかる障害による苦しみを避けるため、我々は存在するべきではなかったと説いた例などがあります。反出生主義は何も最近湧いた思想ではなく、何かしら生の苦しみを負ってきた人類がずっと抱えてきた思想であるということが言えます。

一方で、出生を肯定的に捉える思想も古来よりあります。宗教ではキリスト教の避妊・中絶忌避の考え方、あるいはイスラム教聖典における性の肯定などが挙げられます。また哲学の面においても、例えばドイツのアーレントなどが新たな政治的公共性を作り出すために出生によって新たな世代を生み出すことが必要である、と述べています(アーレントの場合はナチス政権に対する抵抗というバイアスがかかっている可能性は十分にありますが)。


3.ベネター型反出生主義

では先程紹介したベネターの反出生主義を詳しくみていきましょう。長いのでところどころ端折りながらにはなりますが、主にベネターがなぜ存在することの害悪を提唱するのか、そして子供を作ることについてどのように捉えているのかという2点に絞ってご紹介します。

まずは人生の価値の二面性という観点について。先程の相模原の事件について、私は「命を自身の預かり知らぬところで奪われるようなことは、どのような理由があっても許されない」とコメントしました。多くの人は、すでに生まれている人の生命に対して「価値」を語ることには否定的であり、それはもっともであります。ベネターはそうした今ある人生ではなく、今はまだない人生、すなわちまだ生まれてきていない命について「人生の価値」を問うべきであるとしているのです。

まだ生まれてきていない命、これから「始めるに値する人生」の価値については、ベネターは明確に「生まれてくるに値しない命」を提示しています。子供が生まれてくる環境・条件を想定したとき、例えば紛争地域、極度の貧困、先天的重度障害…。そうした環境・条件下で生まれてくる子どもたちに対して、私達は安易に「あなた達はそれでも生きる価値がある!生きるべきである!」というべきなのかどうかということなのです。

そしてここがベネターの論点で重要な点なのですが、快楽と苦痛には非対称性があるということを説いています。上図のシナリオAとは、既に誰かが生まれている(存在している)場合を想定し、シナリオBでは今だ誰かが生まれていない(存在していない)場合を想定しています。

シナリオAの場合は存在者がいるため、苦痛の存在は悪く、一方で快楽の存在は良いこととされます。しかし誰もいないシナリオBの場合では、苦痛を感じる主体がいないため、それは良いことである。そして快楽を感じる主体がいないことについては悪くはないことであるとしているのです。

ベネターはこの図の中で、快楽と苦痛の2つの非対称性を提示しています。1つ目に、苦痛は快楽よりも強度があるということ。小さな苦しみがそれまでの幸せを無に帰してしまう可能性を秘めているということです。そして2つ目に、苦痛の除外には義務感を感じる一方、幸福の創出には我々は義務感を感じないということ。「生まれてくる子供の幸せを願って」出生を行うことは、ベネターにとっては「何ら義務がないこと」であり、むしろ苦痛を感じる主体を新たに存在させてしまうという点で不義であると捉えています。

以上の幸福と苦痛の非対称性から、ベネターは①人生は想像以上に苦しみに脅かされていること②出生を行わないことによって、結果として誰も苦しまずに済むことを説いていると言えるでしょう。

そして「人生には幸福もある、だから出生行為には価値がある」という反論をベネターは想定した上で、いかに我々が人生の質を見誤っているか(=人生は我々が思っている以上に悪いものであるか)を説明しています。

まずベネターは、人生のプラス面とマイナス面の単純比較では人生の質を正確に判断することができないと主張しています。例えばそれら良いことと悪いことの人生における分布、良いことと悪いことの強度の問題、また人生の長さといった条件を十分に加味しなければならないという前提条件を重視すべきということです。

心理学的アプローチという項目では、我々が人生の質を見誤っているという指摘を3つの視点から補強しています。

1つ目にポリアンナ効果。これは人間は往々にしてポジティブに考えるようにできており、つまり本当は苦痛を感じているとしても、楽観的に捉えてしまっている(見誤っている)というものです。

2つ目の習慣化は苦痛に対する順応で、具体例をあげるならば日常的な不快感(暑さや寒さ、心身の痛みや違和感)から、継続される苦痛(満員電車に揺られるというような)への順応、半ば諦観的な心理傾向を指しています。

そして3つ目の他者との幸福の比較は、多くの人が共有する苦痛を苦痛と認識しない心理傾向を指しており、歴史を振り返れば戦時体制下の国民生活、現代であれば苛烈な受験競争といったものが例として挙げられるでしょうか。

このような人間の心理傾向が、我々が実際に感じている苦痛に対するアンテナを鈍化させ、人生の質を見誤らせているというのです。

またベネターはパーフィットの著書を引用し、人生の質を判断するための3つの説を挙げ、いずれの方法による検証でも、人生は悪いものであると結論付けています。中段の欲求充足説はこれまでの論点に無かったので補足すると、人生の質は欲求が充足されることで保証されるという欲求充足説に対して、ベネターは「欲求が満たされていない期間は思った以上に長く多い」と一蹴しています。よくよく考えれば、常に欲求が満たされ続けている人生なんてないのは事実ではあります。

このような「実際のところかなり悪い人生」は無いほうがマシ、ということで、ベネターは子作りをしてはいけないと主張しています。社会で言われるような子作りをしなくてはならない義務といったようなものはない、という前提の下で、です。

ベネターに言わせてみれば、いまだ生まれていない主体にとっては、生まれてくるとかこないとかは利害関心に無いということなのです。そもそも生まれる前の主体とは意志を持たないし、加えて苦痛と快楽の非対称性に鑑みれば、そもそも苦痛を感じないことは良いことだし、幸福は感じないけれどそれは我々が義務感を持って克服すべきことではない。出生行為は何ら義務でない行為であるのに、苦痛を感じる主体だけは生み出し続ける無益な行為であるのでやめるべきだ。そういうロジックです。

ここまで読んで下さりありがとうございました。ベネターがなぜ反出生主義を唱えているのか、なんとなく分かっていただけたでしょうか。②では、では既に生まれてきてしまった私達はどうすればいいのか。反出生主義と現実との折り合いについてご紹介したいと思います。

>>>②へ続く

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