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30年前、先生に教えてもらったこと

私が大学生だった1980年代とは異なり、今の学生が必ずしも大企業に就職しなくなって久しい。大企業にいかず、ベンチャーを起こす学生も多数いる。プロフェッショナルファームも大人気である。

今も学歴主義が存在しないわけではないが、卒業して30年以上たち、いろいろ振り返ってみると、会社の中で昇進することが必ずしも幸せなわけでもなく、だからと言って旧帝大卒や早慶の卒業生が全員偉くなっているわけでもない。

昭和も終わろうかとしている頃、私が卒業を控え、同じ大学の大学院に進学希望を出したとき、私の恩師である教授はこうおっしゃられた。

「君は、この大学を卒業して、同じ大学院にそのまま進学するつもりかね。それでは能が無さすぎる。アメリカに留学するとか、今なら中国に行ってみるとか、助手の○○君が北陸に転勤になったので、そちらについて行ってみるとか、環境を変えないのかね。」

「お金なんかなんとかる。向こうで奨学金を貰えば良い。一年も居て、奨学金も貰えないようなら、センスがないということで帰ってくれば良い。それでもその経験は得難いモノだ」

無茶振りである。当時、大学院に行くなら、同じ大学の大学院に進学するのが当然と思っていた私は、かなり驚いた。先生、何言ってるんだ。無茶苦茶だ。学生だった私は聞く耳を持たなかった。

「君たちは、東大や京大の大学院を卒業すると、一生安泰だと思っているのだろう。だから他には移りたくない。図星だろう。そんな時代はすぐに終わる。いや、もう終わってる。世間では、CI(Corporate Identy)とやらが流行っているが、これからはPI(Personal Identity)の時代だ。大学や会社にしがみついて生きていてはダメだ。」

つまり、環境を変えないと人は成長しない。自分を成長させないと、これから来るPIの時代に意味がない。ということだった。当時同じ研究室にいた同期3名と1年上の先輩3人とで、呆然として話を聞いたのを今でも覚えている。

当時(1989年)は、かなり斬新な意見であったが、今思えば、先生のおっしゃられたことは現実となっている。この先生、「京大にしか在籍したことのないモノは、京大の機械工学科の教授になるべきではない。他の大学や企業など多様な経験すべき。」と話していた。たぶん教授会では、顰蹙を買ったのではないかと思う。私も全く同感であるが、なかなかできることではない。しかし、大学4年と大学院の2年間、都合3年をこの教授のもとで過ごしたことは、何にも変えがたい貴重な経験だった。

さて、戦後いつまでかは、学歴主義が通用した時代がある。そうでなければ、こんな言葉が生まれてこない。先生のアドバイスが正しかったことを認識するために、少し雑ではあるが、推計してみることにする。

大学が現在の新制大学制度になったのは昭和24年。ということは卒業が昭和28年あたりから新制大学の卒業生が大量に増産されるわけである。東大だけで毎年3000人くらい卒業する。これに京大、阪大、名古屋、東北、九州、北海道、一橋、東工大…などを入れると、ざっと25000人くらいが増産される。これに早慶を加えると、さらに15000人。これだけで、ざっと40,000人くらいが1学年で排出される。昭和28年から昭和63年までの35年間で、140万人くらいの旧帝大および早慶の学生が輩出されたことになる。全員がライバルになるわけではないが、同学年だけでなく前後5年はライバルになると推定すると、4万人✖️5年✖️2=40万人もいる。

日本が成長を前提とした集団経営が成立していたのは昭和60年(1985年)くらいまでであろう。昭和28年から昭和60年で4万人✖️32年間=約130万人もの旧帝大と早慶がいるのだから、相当分厚い岩盤ができている。分厚い... 分厚すぎる。しかも自分のライバルも凄まじい数がいる。しかも米国と異なり、GAFAのような企業が多数出てきたわけでもない。ポストも限定的である。

これは、2000年以降、急速に増えた弁護士、会計士、最近までやたら就職人気のコンサルタントなどにも言えることである。ココに入れば安泰という話ではなくなっている。

先生がおっしゃった通り、「君たちは、京都大学を出たから将来安泰だと思っているんだろう」というお言葉に、全く反論できない。私が卒業した1989年ごろは、昭和28年卒(1953年卒)の人が59歳くらい。当時の定年が55歳としても、昭和28年卒業以降の方々のほとんどは、まだ現役で残っていた。もはや貴重品でもなんでもない。学歴主義が通用したのは、昭和50年(1975年)くらいまでであろう。我々は、我々の親世代の幻想(良い大学にいけば出世する)に踊らされ、受験勉強をしていたことになる。

先生には、学生時代はいつも怒られてばかりで、研究会の発表をする日や海外の文献を読み合わせする日は、1週間前から憂鬱だった。特にMachine Toolsを機械工具と訳したときは、無茶苦茶に罵倒され、激怒された(正しくは工作機械)。「機械工学を学ぶ学生とは思えない。○○君、Machine Toolsは何か山川くんに教えてあげなさい」。私の同僚に、先生は無茶振りをしたものの、彼も私同様、勉強しない学部生代表として「機械工具?」と答えたため、火に油を注いだ。今では笑い話だが、怒られてばかりの3年間だった。

先生には一度だけ褒めてもらったことがある。就職先を横河ヒューレットパッカードに決め、推薦状をもらいに行ったときだ。君はみんなが行くような企業を選ばず、うちの研究室から過去誰も行ったことのない会社を選んだ。とても素晴らしい。HPは素晴らしい会社だ。しかし、推薦状を書いてくださいと言ったところ、紹介状は書いてもいいが、推薦状は書かないと拒否された。なるほど、あくまで本人の能力は保証しないというスタンスだな・・・。徹底している。どこまでも骨があり、厳しい先生だった。卒業後は、年賀状のやり取りだけでお会いすることもなく、お礼の一言も言えぬまま、先生は昨年他界された。先生、ありがとうございますと、一言いえなかったことが、大きな後悔だ。

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