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BIO+FORM 考 自然と建築の幸せな関係 『いい風景に出会う』 (NZ視察番外) 

旅をしていると日常では見ることのできない「いい風景」に出会うことがあります。それを見るために旅に出ている、とも言えるかもしれません。
ちょっと大きなことを言うと、生きていく上で、ひとの人生の価値はどれだけいい風景をたくさん見るか、にかかっているとも思うのです。

NZツアーの各所で、息を呑むような風景から、ほっこりするような風景まで、東京にいたら出会えないさまざまな風景に出会うことができました。
なにせ人口密度が日本の約20倍も違うのだから、自然の密度が濃いのは当然です。

風と草と海の協働
訪問したエコビレッジ アースソング から

自然丸出しの大きな風景に出会うと、人は単純に感動します。
その大きな仕組みの中で、私たち人間の営みがイーブンの関係に置換されて、自然のもっている波動にどんどんチューニングされていくのが心地良い、と感じるわけです。
高校生の時に「倫理」と言う授業があって、その講義の中で、仏教用語で「梵我一如」と言う言葉を教わりました。国語辞典をひくと「【ぼんがいちにょ】自然的世界の根本原理であるブラフマン(梵)と,人格的な自我の原理であるアートマン(我)との本体が同一無差別であるという思想。」(出典 精選版 日本国語大辞典)と出てきます。つまり簡単に煎じ詰めて解釈すると、人と自然との一体感、というようなことかな、と思います。それ以来、仏教のことはよくわかりませんが、この言葉だけはことあるごとに頭の中でリフレインしているのでした。
梵我一如の境地=自然との合一感、と言う究極の感覚を得ようとして、風景を眺めている自分がいます。

以前、ランドスケープデザイナーの宮城俊作さんの「庭と風景のあいだ」という本を読みました。近景の、ひとが積極的に関与する「庭」と、遠景にある大自然との関係性を紐解いたとても良い内容だと思いますが、その中で風景にはグラデュエーションがある、と言う示唆をもらいました。単純に「風景」と言っても、大自然から、人が作る人工的なものまでその幅はとても広いわけです。
なので、いい風景に感動する、といっても、その感じ方にも幅がある、ということになります。
また、宇根豊さんの風景論で「風景は百姓仕事がつくる」と言う本があります。徹底した農本主義の方で、パーマカルチャーを学んでいる私としてはかなり共感できる部分があります。宇根さんのこれらのご著書の中で、たびたび、『農民はその風景の「なか」にいるので、「美しい田園風景」には感動しない、むしろ農民自身が風景である。』的な(これは読ませていただいた上での私の「翻訳」です。)話が随所に出てきて、なるほどな、と思いました。
いわゆる「感動」はしないが、風景との合一を体得している存在としての農民がいる、と言うことは考えてみると究極の理想像ではないか、とも思うわけです。

人の営みもまた風景をつくる

雄大な自然、という風景もまた否応なく人を感動させるが、人の営みと自然との折り合いとせめぎ合いもまた、なぜか人の心を動かす、ということが言えると思います。
風景には客体化された風景と、自分自身がその中にいる風景の2種類があり、それを感じる自分の目線とそこにどう関わるか、の両方の所作とそのバランスが必要です。

また風景を見る目、という私たち側の態度、ということも大事かと思います。
同じ風景を見ていても、人によってその感じ方と解像度は全く違うわけです。
先日、『さとのえ』プロジェクトでご一緒している環境デザイナーの廣瀬俊介さん(「風景資本論」著者)に「さとのえ」の周りの今後の整備にあたって、一緒に敷地を見て回る機会がありました。つまびらかにどんな植物がそこに生えているか、を解説してもらうと、目の解像度が上がって、「そこには何もない」風景が途端に「豊かな風景」になってきます。
だから、いい風景に出会おうと思ったら、そうした風景を目指してどこか遠くにいく、ということも時には必要ですが、むしろ私たちの目線も鍛えておく準備運動も必要だ、というわけです。

そして、風景というのは公共資源ですね。個人で担えることは小さいけれども、必ずや大きな風景につながっていることをもっと認識を広めたいです。小さな風景の積分が大きな風景につながっている。小さな風景を蔑ろにすると良い風景は作れないと思います。

最後に、徳島県の神山町の風景を載せておきます。
田畑、石垣、生業、住まい、建築、働く場、山、木々。それらが統合されてそこに存在します。私はこれを「美しい」と思います。

風景、っていいことばですね。「風」の「景色」と書く。
いい風景の写真はありますが、それでは得られない匂い、音、風の感覚が揃って「いい風景」と感じるのだと思います。
風によってそよぐ木々の枝葉。
寄せては返す波の形。
それはすなわち風のカタチでもある。
風が体、耳をわたっていくときの風切りの音。これもまた風によって感じる自然の姿です。
風は視覚と聴覚に置き換えられ、場所の全体性をひとは体感します。

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