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"ゆかりん"を"田村ゆかりさん"と呼ぶようになった、自分の話

これは  ゆかりっく Advent Calendar 2023 - Adventar 13日目の記事です。折り返し。

昨日は音翠玉さんの「写経のすゝめ」でした。
自分もたまに、好きな歌詞をMIDORIのノートに書き写してみたり、手書きの日記を書いたりするので、共感。


改めまして、"くろ" と申します。
普段はネット小説を投稿したりして過ごしています。

この度、田村ゆかりさんのことも含めて呟く、日常用のTwitterアカウントを作ったところです。なので、ファンの方を急にフォローしていて、驚かせていたらすみません。

そして、以前より存在を知ってはいた、アドカレ企画。
(Twitter自体は昔から使っていたので)

「文章を書くことは好きだし、せっかくならやってみよう」と思い、この枠を頂くことにしました。主催のぷるおさんをはじめ、受け入れてくださることに、まず御礼申し上げます。

書く理由としては、高校生の頃に田村ゆかりさんを知ってから今まで、彼女がどんな存在でいたのかを、一度まとめてみたいと思ったから。

そしてタイトル通り、自分が何故 "田村ゆかりさん" とフルネームで呼ぶようになったのか。
100%の自分語りにはなりますが、ライブ等の思い出込みで、時系列順に綴っていきたいなと。

9500字くらいの長文で、画像も少なく文字ばかり……それでも、自分の記憶と感情に、お付き合いいただけたら幸いです。

・2007~2009年頃(彼女のことを知り、"ゆかりん"のファンになる)

私が田村ゆかりさんを知ったのは、今から16年前の、高校に入った頃。

教室で前の席になった人と仲良くなり、同じ部活になったので話すことも多くなる中、「これ聴いてみて」といった感じで田村ゆかりさんをオススメされました(ipodで聞かせてもらった記憶)。

最初に覚えたのは確か、『恋せよ女の子』だったでしょうか。彼が『極上生徒会』を観ていたがゆえでしょう。

そこから色々と聴いていった自分は、可愛らしくて耳に残る歌声に、惚れていったのだと思います。

そして、「文化放送でラジオやってるよ、面白いよ」とオススメされて、「いたずら黒うさぎ」も聴き始め、そのトークの面白さにもハマりました。

私自身はトークの苦手な人間ではありますが、彼女から、少しトークのエッセンスを貸してもらうことで、多少は今にも生かされているような気がします(でも話すのは苦手)。

そもそも、ラジオ自体も始めて聴くような人間でしたから、話しかけてもらえるような感覚だって初めてなわけで。
そこに、彼女のほどよい脱力感が合わさって、毎週土曜日の楽しみになりました。あの頃のOPテーマは『Melody』で、今も好きな曲の1つです。

かつ、この頃はやはり、"ゆかりん" という印象が強くありました。

『fancy baby doll』『チェルシーガール』などがリリースされた時期でもあり、何より自分にとっては、「可愛い歌で自分の脳を蕩けさせてくれる人」という感覚が強かったはず。

可愛らしい声と、ラジオでの毒を含んだトーク。まだライブ映像などをほとんど見てなかった自分にとって、魅力はそこから始まりました。

余談ですが私は、アニメをあまり見ないです。一番見ていた年でも(大学生の頃の)2~3本くらいで、それ以外の時期はほとんど何も……なので、声優としての彼女については、知らないことばかりです。

そういうわけで、歌声とラジオがほとんどではありました。しかしそれでも、自分にとってはまさに、「可愛い」のアイコンだったと思います。

だから、件の友人と話すときも "ゆかりん" と呼んでいましたし、(それまで何かにハマることが無かった自分にとって)初めての、好きになった女性アイドルでした。

声優と言うよりも、アイドルかつラジオパーソナリティという印象で強く捉える。これは、最初の頃から今まで、一貫して変わらない感覚です。

なので、「ゆかりんが好きってことは、アニメも好きってことだよね」と言われると、微妙に困ったりします。
『波打際のむろみさん』と『B型H系』くらいしか、「出てるから見よう」と思ったことは無いような気が。

自分からすれば、「ゆかりんが出ているから、そのアニメも全部チェックする」というファンの方には、敬意さえ表するところです。


話が少し逸れました。
ともかく、この段階の自分は、彼女を "ゆかりん" と呼べていたはずです。

それが公式の愛称であったこと、可愛いの権化でもあった彼女にピッタリであったのは、理由として当然あります。

しかし同時に、「誰かを愛称・あだ名で呼ぶことに対して、自分の抵抗が全く無かったから」でもありました。

つまり、「自分がそうすることを肯定できていたから」なのです。
これは、自らの中で大きな、とても大きなテーマになっていきました。


・2010~2014年(初のライブ参戦と、その後)

大学生になれば、高校生の頃よりはお金に融通も利くようになって、ライブDVDやCDも少しずつ、購入して家に揃えていけるようになりました。

2010年頃なので、『シトロンの雨』が発売されたあたり。
自分にとって5本の指に入るほどの好きな曲こと『Gratitude』に出会えたり、大学でも "ゆかりん" を知っている人に出会えて話していけたりなど、以前よりもさらに、精力的にいれたような気がします。


相変わらずアニメにはそれほど詳しくなれなかったので、「もしかすると自分は歪なタイプかもな」と思いもしましたが、ラジオや楽曲を通じて、"ゆかりん"が好きという気持ちは変わらなかったです。

とはいえ、ライブ参戦となるとなかなか、ハードルは高く。
「色々とコール覚えなきゃいけないのかな……」みたいなことは考えたり、1人で行くのは勇気のいることでした。

それでも2012年、サークルに運良く、ゆかり王国ガチ勢(ライブに何回か行ったことのある)の後輩が入ってきたので、一緒に行こうという話に。
なので同年の秋、"Fall in Love"の横浜アリーナ公演が初参戦です。

過去のライブを映像では観ていても、実際に行ってみるとやはり、衝撃を受けました。

1曲目の『Honey Moon』の時点でコールに圧倒され、新曲であった『パーティーは終わらない』のラップも皆が覚えていて、そしてラストの『You&Me』の会場全体の熱気。
めちゃくちゃ楽しかったですし、これからも来てみたいなぁと思わされる、そんなライブだったのです。

……とは言いつつも、その後輩があまりサークルに来なくなったこともあって、ライブに行くことはそこから、しばらくありませんでした。

「1人で行けばいいじゃん」と言えばそうですが、ちょうどその頃くらいから、サークル活動や就活などもあり、少しずつ "ゆかりん"に向けるパワーが、落ち着き気味になったような気もします。

それでも、CDやDVDを買うことは変わらないですし、大学卒業の2014年までずっと、"ゆかりん"のファンという意識もありました(ファンクラブにこそ入っていなかったですが)。

ある意味では、この感じが続いていくのだろうな、社会人になってもそうだろうな、なんて思っていたはずです。

しかし、大学卒業した後の自分には、色々な変化が訪れました。

・2014~2016年(個人的な挫折と、"田村ゆかりさん")

2014年は個人的に、大きな転機の年です。それは、残念ながら悪い方向にでした。

社会人にはなったものの、仕事の中でメンタルが崩れてしまい、年内で辞めてしまう形に。何をする気力も無くなってしまい、自分自身に対する自信を失った、そんなタイミングです。

だから、流石に何かをしなきゃなぁと思い、非正規ですが別の仕事に就きました。そのまま、現在まで一応は働くことが出来ています。

それでも、自分の能力とかコミュ力などがいかに劣っていたかを気づいて、自分への自信は低下するばかり。何より、メンタルが崩れると、自分の感覚そのものが崩れていくようになります。

今まで楽しめたはずのことが楽しめず、すぐに床に臥せるようになるなど、心と体は一番、バラバラな時期でした。

その症状の1つとして、今まで親しかった人のことさえも、愛称とか、果ては下の名前で呼ぶことを、怖がるようになりました。

現実世界の友人にも、そして、田村ゆかりさんに対しても、です。

「人のことを下の名前で呼ぶなんて、自分ごときがそんなことしていいのかな」
「気持ち悪がられないかな」

そんな感覚が、心を支配しがちになったと思います。


丁度その頃は、田村ゆかりさんは事務所やレーベルの問題もあって、色々と難しい状況だったように思えます。もちろん、頑張って欲しいという感情は抱いてましたが、しかし同時に、私自身も不安定な状況に置かれていました。

難しさのレベルが違うことは、理解してます。
でも、自分自身が「私は、人をそんな親しみを込めて呼べるような人間なのか」と自問自答してるような状況では、誰かを推すというのは難しかったです。

なので、 "ゆかりん"から "田村ゆかりさん" へと、呼び方が変わったのはこの時期です。とてもネガティブな理由ではありますし、同時に、自分ごときが推して良いのかという感覚さえ、あったかもしれません。

好きでいることは、何も恥じるべきじゃないというのに。
今であれば、それもわかっているのに、色々と崩れていた時期でした。

・2016~2019年(ファンクラブ入会と、久々のライブ参戦)

ボロボロな心身、不安定な感情。
しかしそれを、放置するわけにはいきません。

そんな中、自分自身を取り戻す意味も込めて、私はファンクラブに入会することにしました。

唐突と言えばそうですが、働く中で楽しみもなく、ただぼーっと生きている感じがしたそんな状況を打開するためにも、楽しいはずのことにまた取り組むことが、必要な気がしたのです。

そして、好きという気持ちはちゃんと、抱けてはいました。それを口に出すこと、表に出すことが怖かっただけです。

かつ、田村さん自身も事務所が変わり、でもレーベルはまだ決まっていないという再スタートの時期。勝手な感情ですが、自分自身も今が、ぽんと踏み出すチャンスかもなんて、思ったりして。

そして入会して最初の冬、FCイベントがあったので、「そんな真剣に追い続けてないような人間なのに、行っても大丈夫かな……」という気持ちがありながらも、思い切って1人で参戦。
2016年の両国国技館でした。

その頃は、事務所が変わってすぐのことだったがゆえ、色々と活動にも制限がある時期だったようでした。それでも自分にとっては「本人が動いている」という目の前の情景だけで、とても嬉しかった記憶があります。

「あぁ、もうちょっと頑張ってみようかな」
そう思えたのは、少しの希望でした。相変わらず "田村ゆかりさん" と、心の中で呼んでいたのは変わらないですが。

そして、「田村ゆかりさんのライブやラジオが復活する」という報を聞き、嬉しくなったのは間違いないです。

2017年の "Crecend♡Carol"と、2018年の"Tricolor♡Plasir"、パシフィコでのFCイベント、そして"ゆかりっくFes'18" にも参戦することが出来ました。
CCは1日目、TPは2日目と3日目、ゆかりっくフェスは2日目という、当時の自分の元気を考えての参戦になりましたが。

写真はあまり撮ってないですが、C♡C ライブ会場のアドトレ


T♡Pの限定Tシャツ、デザインがとても好き

彼女にとっての再スタートの時期、記憶はしっかりと残っています。

C♡Cの1曲目、『Hello Again』が流れたときに鳥肌が立ったこと。
最後の会場一周で(通路側だったこともあり)目が合った気がして、心がすごく幸せだったこと。

T♡Pの『恋せよ女の子』を聴いた時、自分の一番最初に知った"ゆかりん"にも出逢えたような気がしたこと。
最後の『Baby`s Breath』のイントロが流れた時に皆がどよめき、その上で会場に響く "ゆかり"連呼のコールが、「良いな」と思えたこと。

こういうところの思い出は、振り返ろうと思えばきっと、たくさん溢れ出てきます。

そして個人的には、パシフィコのFCイベントの時に「クイズ研究会の人とかいないかな」という田村さんの言葉を聞き、学生時代に7年間クイ研にいた人間として、思い切って手を挙げられたことでしょうか。

こういう場面、自分はめちゃくちゃビビってしまい、手を挙げるのも怖いはずですが……クイ研という珍しい(?)存在であったがゆえ、勇気を出せた気がします。
何より、その問題の答えがわかった(サクマドロップスが缶に入ってる理由は?)上で、彼女にそれを伝えられるわけで。

結果、(スマホ通話という形で)直接に話す機会を得られたことは、とても大きな思い出です。耳元で彼女の声が聞こえるのって、めちゃくちゃドキドキするのですよね。

渡されたスマホの画面、電話の相手先が「田村ゆかり」になっていたのは、よーく覚えています。
一方で、あの後しばらくは放心していて、その後に披露された『永遠のひとつ』が少し曖昧だったり。

そういうこともあって、少し距離感を取ってしまっていたファンとしての活動も、頑張っていこうかなぁと。
直接話すなんて経験もさせてもらったのだし、「一生推していきたい」と思ったのです。

ライブ中、みんなが「ゆかりーん」と叫ぶときに、自分も思いきって叫んでみたり。
2014~2016くらいに同じ状況であったなら、もしかすると自分は、叫べていなかったかもしれません。

ライブ中だけは、そうやって"ゆかりん"と叫べるようになり、Twitterでも少しずつ、そう呼べるようになる。
過去のアカウントのツイートを遡ってみましたが、やはり記憶どおり、そういう感じでした。

しかし同時に、普段彼女のことを考えるときは、"田村ゆかりさん"だったと思います。
歪に思えるかもしれませんが、自分にとっては少しの進歩、という状況。

こうして、"ゆかりん"と"田村ゆかりさん"という呼び名は、自分にとって並立するようになったのです。

ゆかりっくフェス、休みたいときは休んだり出来るのが、自分には合ってたかもしれないです


ライブの参戦では、2019年の"Twilight Chandelier"、その追加公演である横浜も行きました。

彼女が、ラストのMCで発した言葉。

「生きてる意味をくれて、ありがとうございます」

それは、きっと多くの人が「こちらこそ」と思ったでしょうし、自分も同じです。

自分が生きてる意味って何だろうな、そう思うばかりの自分も、彼女にとって少しでも、生きる意味になれているということ。
この言葉には、とても大きく心を揺さぶられましたし、強く、とても強く記憶に残っていて。

「またいつか来たいな、ゆかりんって叫べれば良いな」なんて思いながら、会場を後にしたことを覚えています。

それに、アンコールの時に皆が「ゆかりん」とコールすることが、とても好きでした。

親しい人が少なく、それでいて親しく呼ぶことも下手な自分にとって、田村ゆかりさんだけが、親しい気持ちで呼ぶことを許されているような、そんな感覚にさせてもらったのです。

T♡Pの時、確か最後には売り切れたんですよね。凄い

・2020~現在(コロナ禍と、遠くからの距離感)

皆さんご存じの通り、2020年のイベント中止も含め、コロナによって色々と変わったことは多いです。

それに私自身、元々すごく心配性な、不安がりなところがあったので、大好きな彼女のイベントであっても「今年、もし復活したとしても行けないだろうな」という意識はありました。
病気への恐怖心も強かったですから。

実際、翌年からライブツアーが復活していきましたが、自分はまた、ライブDVDを買って観ることに戻っています。
もしかすると自分は、たとえコロナが完全に収まったとしても、行くことが難しいかもしれません。

というのも、ここ数年のコロナ禍、制限ある社会の中で私は、人混みへの恐怖心が生まれてしまったように思います。
過呼吸を起こすこともしばしばあり、"なるべく人のいないところを、逃げ場のあるところを" というのが現況です。

それに、人と喋る時の感覚については、悪い方に戻りがちでした。
自分の話はつまらないだろうな、独りぼっちだな、怖いなと思うことだって、また増えたかもしれません。

最悪だった頃よりはマシなので、仕事を続けるとか、日常生活ではそれほど、大きな問題にはなっていません。
しかし、ライブ会場という空間に戻るには、自分の力はとても、弱くなってしまったように思えています。それは、日常が戻りつつある2023年現在も、同じかもしれないです。

でも、ライブに行く気力や体力が、まだ回復していないとしても。
それでも、自分は変わらず、"田村ゆかりさん" が好きです。これは、2014年の時よりは自信を持って言えるはずだと。

ライブに行かなくなってしまったので、"ゆかりん" と叫ぶことは日常では無くなりましたし、たとえばTwitterなどでも "田村ゆかりさん" と呼ぶことが多いです。
もしかすると今後も、同じようにするかもしれません。

でも、それで良いような気もしてきています。
(もちろん、仮に今後、彼女のライブに参戦することがあるならば、"ゆかりん" と叫ぶのでしょうが)

以前にどこかのMC?で、"ライブ初めてだから、何すれば良いかわからないってお客さんいたら、ゆかりんを観てれば良い" みたいな話があったようですが、その感覚と似ています。

今の自分が出来る「推す方法」を、取れればいいのかな、なんて思ったり。
CDやDVDを買って、時にはラジオを聴いて……という方法を取るのが、今の自分なのだと。

もちろん、ライブに全力というファンの方には、尊敬の念だったりを抱くことは変わりません。

コロナ禍のライブ映像では、皆がマスクをしていますが、コールの代わりにクラップを使ったりなど、新たな取り組みを感じました。
それは、本人が主導したところもあるでしょうが、同時に、お客さんの「盛り上げたい」という感情が無ければ、成り立たなかったはず。

そういうところも含め、自分は彼女のライブが好きです。現地参戦だろうが、映像で観るのだろうが、やはりそれは変わりませんでした。

・"田村ゆかりさん" への応援

コロナも収まってきた、というと気が早いかもしれませんが、今は客席からの声出しも解禁されているようですし、以前のような「大歓声に満ちたライブ」が戻ってきているのだと思います。
今年のライブツアーの映像化は、とても楽しみにしています。

自分が現地に行き、最前線で楽しむことはまだ、難しいかもしれません。でも、彼女のことを応援したい、という気持ちだけは、変わらないと思えます。

そうじゃなければ、16年間のどこかで、他の趣味のように忘れてしまっていたはずです。

ここまで生きてる中で、難しいこと、人より劣っていると感じて悩むこと、泣くこと、辛いこと、たくさんありました。コロナ禍で人と接するパワーが減って、また悪い方向に行きかけたりもしています。

何かを楽しもうとしても長続きせず、何だか苦しいなと思うことも、ここ数年で増えました。将来への不安だってあります。

でも、その中で自分が、唯一と言って良い「忘れなかったこと」、それが "田村ゆかりさん" という存在なのです。

当然ですが、自分自身も変わりましたし、彼女も色々と、変化していると思います。
キングレコード時代までの、"ゆかりん"のイメージに近い明るくポップな曲が多めの活動から、カナリア時代は、今までとは違う雰囲気も生み出して、新たなイメージを抱かせてくれているような。

最新のアルバム『Altoemion』を聴いていると、尚更にそう思います。『逆蜻蛉』などはもう、背筋が凍りそうなくらいでしたから。
(逆再生って凄いですよね)

もちろん、飛び曲とか可愛らしい曲は、大好きです。
でも、やはり彼女には彼女自身、今やりたい曲を歌ってほしいですし、もしそれが"一般的なゆかりんのイメージ"とは違っていても、それは挑戦なのだと思います。

これほど長く続けているのに、新たな挑戦をするところは格好良くて、でも可愛らしさを損なうことなんて無くて、やっぱり好きだと思わせてくれて。

そういう、彼女側からの変化だって当然ある。
その上で、自分自身の生活、成長、あるいは思考の変化だってある。


もちろん、自分が高校生の時に見た、可愛くてファンシーな曲が多かった頃の "ゆかりん" は、自分にとっての青春でした。

でも今は、アイドルらしい"ゆかりん"だけじゃない、色んな側面でパワーを見せてくれる "田村ゆかりさん" が、この令和にいるような気もします。


言いたいことは、とっちらかりそうです。
でも、"ゆかりん" と皆が呼ぶ中で、自分のような経過があって、"田村ゆかりさん" と呼ぶ人間もいるよ、というだけの話です。

かつ、彼女は私にとっては、16年間ずっと、忘れなかった存在でした。
少し距離を取ってしまった時期はありましたが、自分の心のどこかにいてくれたのだと思います。

常に、彼女のことを全力で推せているかはわかりません。ラジオも全部聴けているわけじゃなく、アニメ出演は相変わらず見れていないです。
「ライブたくさん行きました」と言える人には、今の自分はなれないと思います。

田村ゆかりさんはいつも、ツアーの時のMCで「今日が初めてーって人もいるよね、ありがとね」ということを言っている気がします。
あの言葉には、今までライブに行けても1日だけ、という自分は、とても救われていました。

だから、自分は少しずつ、出来る範囲で動ける範囲でやっていくつもりです。家から「頑張って」という念を、ライブの日には送ったりするのです。


・さいごに

最後になりますが、自分の特に好きな曲の1つに、『ケセラセラ』があります。最初に聴いたときから、もう「大好きだ」と思ったくらいに、バチバチにハマりました。

その歌詞で、特に好きな部分があります。

「あなたの最後の 内緒になりたい」

自分にとって、彼女は「内緒」の一つなのかもしれません。
無論、推すことを隠しているという意味では無いです。

たとえ「好き」ということが明確でも、表に出している言葉以外に、自身が大切に抱く感情だって、並立してあるような気がして。

その一端を、ファンレター、SNS、日記、そしてこのアドベントカレンダーの企画みたいな場所で出してみたり。
そして時には、出さずに秘めておいたりもするのでしょう。

だから、自分にとっての「内緒」でいてくれることを、感謝したいのです。
これからも、"田村ゆかりさん" のことを、周りからすれば控えめに見えるかもですが、好きでいたいなと思うのです。


何より、ぐらぐらしがちな私の心を、16年間守ってくれてありがとう、そう伝えたい。

田村ゆかりさんへの、最大限の敬意と感謝。
それと、贅沢なことではありますが、好きという気持ちを込めて、この文章を締めくくりたいと思います。

___________

長文の自分語りにお付き合いいただき、ありがとうございました。伝えたいことが少しでも伝わっていれば、とても幸せなことです。

明日は14日目、ぷる。さんの「アクスタの背景を作ったよ。」です。
アクリルスタンドの背景を自作するという、凄く繊細な創作をされていて、出来栄えも素晴らしかったです。是非読んでみてくださいね。


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