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不思議

2020年も終わりに近づいてまいりました。

毎年私は、M-1が近づくと「あぁ、もう年末か」と意識し、M-1が終わると、もう年が明けたような気分になります。今まさに、ミルクボーイという年号からマヂカルラブリーという年号に変わったような気分です。

今年は、世間にとっては“コロナ”と“鬼滅”の1年でした。ソーシャルディスタンスの生活には、まだまだ終わりが見えません。個人的には、“書くこと”から比較的離れていた1年でした。

私にとって“書くこと”は“生み出す”ことでもあったので、書かなかったということはある意味、心の状態は静的だったのかなあと思います。
久しぶりに今日は、動的な「書く」をしてみます。

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自分の人生を“決めている”のは何なのだろうか。
ということについて最近考えます。いや、前からそんなことばっかり考えてるか。

バタフライエフェクトではないですが、何かひとつの行動でも欠けていれば、全然違う人生になっていたと思います。
すべての出来事は、偶然の積み重ねでしかなくて、予測なんて出来やしませんでした。

でも一方で、ときに<運命>ということを考えてしまうこともあります。
自分の意志で決めてきた行動だと思っていることすらも、定められたことだったのかもしれんなぁ、なんてこと。

<時間>について考えだすと、そんな壮大なテーマの沼に入っていきます。

今年鑑賞した作品のなかで印象に残っているのは、ドラマではNETFLIXの『DARK』、映画では『TENET』なのですが、どちらも<時間>を扱った作品でした。
ドラえもんのタイムマシンほど簡潔ではなくて、どちらも理論と現実の矛盾が映像として描かれている難解な作品でした。他にも、<時間>について考えさせられる機会が今年は多かったような気がします。

もしタイムマシンが出来たとしても、過去に戻って、自分の先祖を殺すことは出来ない。もしそれをすれば自分が生まれなくなるので、別の未来が生まれるということになる。
“親殺しのパラドックス”と呼ばれる論理的矛盾です。

パラレルワールドはなくて、
一つの時間軸でこの世界が再生されているのだと仮定するなら、
全て(今後起きることも)は決まっていたのかもしれません。

あらゆる過去の出来事は<起きなければいけなかったこと>だったりもする。
もちろん、書き換えたい過去は多くの人は持っています。しかし、どれだけ凄惨な出来事であっても、過去は変えられないという事実だけがこの世界にはある、と残酷なまでに私は思います。

本音を言えば、今になって後悔していることは沢山ある。
けれども、その苦しい時間の中でも、思い返せばたくさんの出会いがありました。
多分、それらは今の自分が存在するためには<起きなければいけなかったこと>なのだと思います。
そして、そう思うことで、楽になる一面もあったりします。

「仕方ない」と思いながら流れに身を任せるということも、人生のどこかでは必要だろうと思います。流れに飲み込まれて自分を見失わずにいられるなら。


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あと数ヶ月もしたら、私は30歳になります。

とにかく居場所を転々としてきたなぁと思います。それは物理的な意味も精神的な意味も含みます。

それほど難なく過ごしてきた10代とは異なり、難ありまくりの10年でした。
あっというま…ではなかった。昨日のように思い出せる映像もあれば、無意識の奥底まで隠されてしまって二度と掘り起こせないようなコンプレックスもあるはずです。

子供の頃の自分には、別になにか大した夢があったわけでもない。
20代という年代に対しても、少年漫画の主人公よりは大人で、オーシャンズ11よりは若い?そのくらいのイメージしかなかったかもしれない。

時間の経過というのは不思議なものです。
10歳の自分から見た20歳は、“なんでも知っている大人”でしたが、
今の自分から見た20歳は“なんにも知らない子ども”のよう。

ただ、
人生に始点(生)と終点(死)があるとすれば、
<今>は、始点からは最も「年をとった」年齢であると同時に、
終点からは最も「若い」年齢なのだということを、何度か考えたことがあります。

そんなことを考えるようになったのだから、まぁなんだかんだ色々経験して大人になってきたよ、と、10代の自分には誇らしげに言ってみようかと思う。
後ろで、老いた自分がわらっているんだろうなあ。



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