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第15回 明日に向かって祈れ!

[編集部からの連載ご案内]
『うろん紀行』でも知られるわかしょ文庫さんによる、不気味さや歪みや奇妙なものの先に見える「美しきもの」へと迫る随筆。今回は、魂の奥底へと向かう野球と祈りの話。(月1回更新予定)


みんな、休日はどう過ごしているの? ずっと気になっているよ。特に、わたしと仲良くないひとは、どう? わたしの話し方が悪いのかもしれないが、全く心を開いてくれないひとが一定数いる。「お休みの日は何をしているんですか?」と尋ねても、のらりくらりとかわされて、挙げ句の果てには嘘までつかれて、絶対に本当のことを教えてくれない。週末のすべてを賭したくなるほど、あんたが魂の奥底から愛していて、あんたの魂の奥底を愛してくれるものについて、ぶちかましておくれよ。ヘイ、カモン! バッチコイ! 豪速球のストレートだろうと、ふいに軌道を変えるチェンジアップだろうと、全部捕まえてストライクにしてみせるぜ。目に力を込めて中腰になって構えてもかわされてしまう。敬遠されるのはバッターではなく、このわたしだ。
 
定期的に同じ部署の新入社員と話をして悩みを聞く、という役割が与えられたことがあった。告げ口担当みたいで話しづらいだろうなとは思ったものの、手を変え、品を変え、親しみをもってもらえるように努めた。だが、新人の彼は模範的な新入社員としての相貌を崩さず、いつまでも就活情報サイトのバナーのようだった。はい。仕事にやりがいを感じています。みなさん優しいです。何も困っていることはありません。面談の回数も残りわずかとなった頃、「こないだの週末は何をしていたの?」と尋ねた。彼は、当時流行っていた映画を観たと言った。原作の漫画も読んでいたのだと。「どのキャラクターが好き?」 彼は押し黙った。いやいや。「王騎」以外、あり得ないんだよ。あの話で王騎以外を好きになるひとはまずいない。彼はそもそも、映画のストーリーすら説明できなかった。本当は観てもいないし読んでもいなかったのだろう。こちらだって仕事でやっているとはいえ、せっかくだから一度くらいは向き合って、ひととひととして話したかった。それなのにしょぼくれた嘘をつきやがってよ、と思うとむかっ腹が立ち、「〇〇さんの趣味はスナッフフィルムの収集。仕事に疲れ、古今東西の殺人ビデオを鑑賞することでしか心を動かされなくなったかわいそうなひと。だから、どうか優しくしてあげてほしい」と、局所的にデマを流した。おそらく、この邪悪さがばれていたから心を開いてくれなかったのだといまならわかる。もちろんデマを信じるひとは誰ひとりいなかったし、わたしは異動になった。
 
すべての球を受け止められるひとになりたかった。すべてのひとの熱い思いに、尊敬でもって応えたかった。そのためにはどうすればよいのだろう。わたしは秘訣を知りたくて、チケットをとって野球場へ向かった。
 
 
嫌になるほどひどく晴れていた。瞳孔をうまく絞ることができず、すべてが白茶けて見える。いろいろあって前夜、午前二時まで職場を出られずタクシー帰りをきめていたのと、連日の寝不足のせいだ。西武池袋線に乗り換え、目指すはベルーナドーム。池袋駅ですでに、西武巨人ともにユニフォームを着たひとを見かけた。セ・パ交流戦である。
 
ベルーナドームはすり鉢状に並ぶ観客席に白い屋根が覆い被さっていて、壁がなく開放的な作りをしている。売店で昼食を買って席につくと、すでに試合は始まっていた。巨人側の内野席だったが、ライオンズのファンクラブ会員ならば小学生以下は特定の日、当日の残席があれば無料で入れるらしく、西武のユニフォームを着た親子連れもちらほらいた。西武ファンと巨人ファンの友達同士で来ているひとたちもいて、半々くらいで混ざっていた。ちなみにわたしはどちらのファンでもなく、選手もほとんどわからない。
 
席でじっとしているとあくびが出た。白球が次から次へとキャッチャー・ミットに吸い込まれていく。わたしの右隣に座っている40代後半くらいの男性は、ひとりで来ているようだった。黒のポロシャツ姿だったのでどちらの球団のファンなのかはわからなかったが、選手名鑑を大切そうに手にして、時折参照してはグラウンドを見つめている。どの打者が三振になろうがヒットを打とうが顔色を変えず、生ビールを口に運びながら静かに黙って観戦していた。
 
選手が打席に立つとき、外野席ではそれぞれの応援ソングが歌われていた。老若男女がユニゾンで、簡単なメロディと節回しで選手のフルネームを歌いあげる。
 
 おかも〜〜とか〜ず〜ま〜〜〜
 
「おかも〜〜とか〜ず〜ま〜〜〜」の響きは澄み切って、ベルーナドームをたっぷりと満たしてから狭山市市街地までこぼれて流れていった。讃美歌のようでもあったし、以前イスタンブールで早朝に耳にしたお祈りの時刻を告げる放送、アザーンのようでもあった。岡本和真選手なら、WBCの試合をテレビで観ていたので知っている。よく打つけど、インタビューの受け答えが変な巨人の選手だ。だが、ひとびとの期待を一身に受けて自信満々で現れた、はちきれんばかりの身体をユニフォームに包んだこのひとは、いったいどういうことだろう? 読売巨人軍御用達の洗剤には蛍光剤がたっぷりと使われているのではと疑うほど、全身が光り輝いている。背も高く筋肉質で人間離れした様相の「おかも〜〜とか〜ず〜ま〜〜〜」は、打席に立つとぶんと勢いよくスイングし、白球は高く打ち上げられてから速度を保ったまま地面に落下して、ツーベースヒットとなった。わっと歓声が上がる。
 
祈りが通じた。いまや神も仏もあやふやで、信じたところでなにかしてくれるほどの効力を持たなくなってしまったが、祈りだけは残っていた。祈りが岡本和真に力を与えたのだ。だが、祈ってボールがバットに当たって、それがなんだと言うのか。勝利を積み重ねて優勝して、観ているひとたちの人生になんの関係がある。関連企業のセールくらいはあるのかもしれないが、そのために応援しているのではないだろう。観客たちはみな、現世利益を得るために祈っているのではなく、祈りのために祈っていた。祈ることこそが幸福であり、力を生む。右隣の男性が掲げている選手名鑑はまるで聖典だ。休日に何をしているか教えてくれないひとは、実はみんな祈っていたのだ。イスラムの神秘家が残した詩に、こんな一節がある。
 
 わが虚無性のただ中にこそ永遠に汝の実存性がある。
 
聖なるものがすでにあるのではなくて、無我の果てに聖なるものが宿るのだ。
 
そんなことを考えているうちに全身に温かな血がめぐり、わたしはうとうととした。目を閉じて惰眠を貪るうちにいくつかのヒットが出たらしく、歓喜の声が幾度となくこだました。わたしはその空間のただなかにいて何かしらの厳かな夢を見たはずだが、詳細を思い出すことはできない。
 
結局その日は西武が逆転勝利を収め、判官贔屓の気のあるわたしは、ほくほくとした気持ちで帰路についた。西武ファンになるのもいいかもな、などと考えつつ電車のなかでも眠りこけ、最寄り駅につく頃にはすでに外は暗くなっていた。サイゼリヤにはいってサラダやスープを食べていると、隣の席に眼鏡をかけた痩せ型の男性がひとり座った。男性は半袖の西武ライオンズのユニフォームを着ていた。
 
「奇遇ですね! さっきまでわたしもベルーナドームにいたんですよ。西武、勝ちましたね!」
 
野球、というものに心動かされきったあとだったのでよっぽど話しかけようかと思ったが、すんでのところでやめた。男性はユニフォームにベージュのチノパンを合わせていたのだが、その左膝のすこし上のあたりが真一文字に裂け、毛の生えた腿が見えていたからである。びっくりして二度見してしまった。男性はキャップもとらずに背筋を正したまま、無表情でひと匙ずつゆっくりとミラノ風ドリアを口に運んでいた。チノパンは何年も履き続けたものと見え、生地が薄く柔らかくなっている。ジーンズなら裂けていてもわかる、そういうファッションもある。けれどもチノパンは。家族か友人が見たら、「捨てなよ」と言うだろう。まるで修道僧のようだと思った。裂けたチノパンは誓いの証、鞭身派の鞭の痕。俗世を絶って清貧を守り、ひとり信仰のもとに生きている。よく見たらキャップからのぞくもみあげもテクノカットで、修道僧らしさの演出にひと役かっていた。この男性はいつから西武ライオンズが好きなのだろう。子どもの頃に西武線沿線に住んでいて、今日にいたるまでずっと愛し続けているのだろうか。いつもひとりで西武戦に赴き、祈りを捧げているのだろうか。知りたかったけど、知らなくてもよいこともあるのだと自分に言い聞かせた。ひとが魂の奥底で愛しているものを、簡単に知ろうとするのはおこがましい。口にすればその神聖さが失われかねないし、馬鹿にされでもしたら取り返しのつかないことになると恐れているのかもしれない。誰にも邪魔されずにひとりで静かに祈りたいひともいるだろう。
 
このひとはどういうひとなのだろうと、勝手に想像することは悪趣味だし失礼だ。それでもそのひとが何を喜び、何に怒り、何を悲しみ、どんなときに幸福を実感するのか。イメージすること自体が、わたしにとっての祈りでもあるみたいだ。なぜならその瞬間、わたしは無私になれるからである。やっぱりひとの魂の奥底をのぞいてみたいし、すべて受け止めてみたいんだよね。傲慢だけど。
 

 
参考文献
井筒俊彦『イスラーム文化』岩波文庫、1991年

わかしょ文庫
作家。1991年北海道生まれ。著書に『うろん紀行』(代わりに読む人)がある。『試行錯誤 別冊代わりに読む人』に「大相撲観戦記」を連載中。『ユリイカ 2024年6月号』(特集=わたしたちの散歩、青土社)に「思い出すための散歩」を寄稿。Twitter: @wakasho_bunko

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