第16回 ベイビー、強く抱きしめて
百円玉の乗った手が脳裏に焼き付いて離れない。男のものにしてはほっそりしていて、女のものにしては大きな、真っ白な手。繰り返し思い出すごとに、その手は輪郭に沿ってぼうっとした青白い光を帯びる。まるで性別を持たない観音さまのような手だった。極楽浄土からの遣いの手を差し出され、わたしは触れるのがためらわれ、なんてことない顔をして、光り輝く百円玉だけつまむようにして受け取った。本当はその手を両手で包み込んで、すがりつきたかったかもしれない。
スーパーの隅で回転するラックに並べて売られているおとぎ話の本をたくさん持っていた。『そんごくう』もあった。孫悟空は自分の力を見せつけるために世界の果てまで飛んでいく。世界の果てに柱がある。孫悟空は記念として、柱に自分の名前を書く。しかし孫悟空が署名したのは、なんとお釈迦さまの手だった。世界の果てまでたどり着いたと思い込んでいた孫悟空は、お釈迦さまの手の届く範囲にしか行くことができなかったのだ。子どもの頃のわたしは、なんて残酷なんだと憤慨し、地団駄踏んで、怒りのあまり吐きそうになった。自分だけが世界の果てにたどり着いたと思っていたのに、そこはお釈迦さまの手のなか。でもいまは、その手にすがりたい。わたしがどこかとんでもない彼方へ行ってしまっても、そこで待っていてほしい。見放さないで、赦してほしい。
書いたものが理解されないとき、つらくなりませんか? 書くのが嫌にならないですか? 聞いてみたかった。まだ聞けていない。わたしも理解できているか、自信ないし。でもいまはだめでも、手を伸ばし続けていつかはたどり着きたい。書いたひとが目撃した光景をわたしも目撃したいし、目撃しましたよと言いたい。まだ、そこにいてくれるだろうか。間に合わなくて、時間切れになってしまわないだろうか。本棚にはずらりと、世界の果てまで行ってしまったひとたちの軌跡が並んでいる。
仲良くなれるかわからなかったひとに、歌舞伎座で観た「妹背山婦女庭訓」の話をした。相手を選ぶ話だと思ったが、このひとなら聞いてくれるかもしれないと踏んで、賭けた。わたしもいい大人なので、普通はこんな話はしない。大抵のひとはついてこないから。しかしそれまでのやりとりの感触から、このひとならばきっと、と思えた。真っ赤な振袖を着飾り美しい橘姫となった中村七之助が、「シェー」と叫んで崩れ落ちる場面について話し、二人で笑った。終盤、恋に狂った町娘のお三輪が、好きな男の屋敷に侵入すると、漁師が現れて短刀でお三輪を刺した。漁師はお三輪の傷口に鹿の角でできた笛を差し込み、生き血を吸わせて、「これで蘇我入鹿を退治するための笛が完成した!」と宣言して幕が閉じた。話の展開にはついていけず呆然としたけど、お三輪が「竹に雀」を歌ったのがうれしかったんだよね、と話した。竹に雀は品よくとまる。「竹に雀」、通称「たけす」は、学生時代の思い出の曲だ。わたしはかつて道端でチンドン屋をやるサークルに所属していて、「たけす」はチンドン屋が最初に覚える曲だから、数え切れないくらいトランペットで吹いた。歌舞伎の演目はたくさんあるのに、よりにもよって「たけす」が聞けるなんてラッキーだった。そう話しながらも内心では、職場の懇親会でわたしがチンドンサークルにはいっていたことを心なくもばらされ、どえらい空気になったことを思い出して胸が疼いた。ちなみに「チンドン屋」は放送禁止用語で、NHKでは「チンドンマン」と報道される。そのひとはチンドンサークルの話に耳を傾け、いくつか質問を投げかけてから、「七段目」に「妹背山婦女庭訓」の台詞が出てくることを教えてくれた。「七段目」は、何かにつけて芝居のことばかり考えてしまう若旦那と小僧の定吉が、芝居の真似事をするという古典落語の演目で、他ならぬ目の前のひとが立派なホールでかけているのを観たことがあった。え、そうなの、と言うとそのひとは、この箇所だよと、商売道具を惜しげもなく諳んじた。
「枝ぶり悪き桜木は、切って接木をいたさねば、太宰の家が立ちませぬ」
子どもの頃、夏休みになるとドラマの『西遊記』が再放送されていた。若かりし頃のマチャアキ、西田敏行、岸辺シローの扮装には毎朝ぎょっとさせられたし、見慣れるということがなかったが、夏目雅子の三蔵法師は美しかった。キャスティングの英断。思うのだが、世界の果てまでお釈迦さまの手が届くなら、お釈迦さまが天竺で経典をひょいとつまんで、唐の三蔵法師に渡せばいいのではないだろうか。わざわざ三蔵法師一行が旅に出かけないといけない理由はあるのか。いや、きっとお釈迦さまは、自力では経典を天竺から唐に移せない、そういうシステムなのだろう。毎年、ドラマより先に夏休みが終わるので、彼らが天竺まで無事にたどり着けたかどうかはわからない。でも楽しそうな旅だった。
わたしはあなたと一緒に天竺に行きたい。ひとりきりで遠くに行くのはさみしい。天竺でPut your hands on my shoulderしてほしい(本当はhandsでなくてheadだが、ずっと間違えて覚えていた)。Hold me in your armsして、Squeeze me oh so tightしてほしい。ベイビー、強く抱きしめて。目を見て、わかってるよって言ってほしい。わたしも、わかってるよって言いたい。本当はわかってなくったっていい。目に映る自分自身と目があっているのでも構わない。伝わりますか? わたしはいま、この文章を読んでいる他ならぬあなたに呼びかけている。あなたに天竺まで一緒についてきてほしいんだ。
近頃は、思ってもみなかったような遠いところまで行けるようになった。ひとの目を気にせずに自分の欲望を見つめて、コツコツと好きなものを集めてきたのがよかったみたいだ。シルクロードを通り抜け、天竺まであとちょっと。觔斗雲に乗って、砂漠の失われた都をあとにして、わたしは天竺をも通り越す。自家用車、新幹線、ジャンボジェット、超音速旅客機コンコルドの速さも超えて、光の速さに到達し、わたしは駆け抜け続ける光そのものになる。イスタンブール、ローマ、パリ、ロンドン、NY、サンフランシスコ、そして東京が、あっという間に過ぎ去って、元いた場所には戻れなくなった。ようやく気がついたが時すでに遅し。わたしはとっくの昔に成層圏を抜け出して、宇宙の彼方まで飛んでいってしまったのだ。そこは音も光もなく、時間すらなく、「ある/なし」の概念もない。もちろん誰もいないから、しまったなあと思う。いや、もう思わない。「思う」とかもないからだ。そこには何にもないから何も書けないし、わたしはすでに目も鼻も耳も、名前どころか、「わたし」すらも失っている。誰にも見つけてもらうことなく、わたしは最初からいなかったことになる。
どこからともなく光の粒子が集まってくる。音も光も無くなったはずの世界の果てで、轟音を伴いながら、光り輝く巨大な手が現れる。あの手は釈迦牟尼仏の入滅後、56億7千万年後に現れるという弥勒菩薩の手だろう。待っていてくれたのだ。巨大な手にわたしは駆け寄る。すがりついて強く抱きしめ、わたしは自分の名前を書く。
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