第10回 「脚色」という仕事について
今回は「脚色」ということをテーマに書いてみます。いつかはこの連載に脚色をテーマにした原稿を書こうと思っていましたが、このタイミングにしたのは『セクシー田中さん』の作者である芦原妃名子さんが亡くなられたことが影響しています。痛ましく、最悪の事態となってしまったこの出来事については自分なりに思うところがありますし、そのことに関してもいつか書いてみたい気持ちはあるのですが、今回はあくまでも「脚色」ということに限って書こうと思います。今回の出来事によって、脚色という作業が世間からはほとんど理解されておらず、映像業界からはとても軽視されているということに不安を覚えたからということもあります(映像業界においては脚色を含めた脚本そのものが、です)。
脚本を書くという仕事には2種類ありまして、小説や漫画などを原作とした「脚色」と、原作のない「オリジナル脚本」とがあります。どちらも完成形はひとつの「脚本」というものではあるのですが、その制作過程は大きく異なります。脚本家自らが企画を発案して書くオリジナル脚本は、基本的に書きたいものを書きたいように書けばいいです。オリジナル脚本で監督やプロデューサーから発注される場合、脚本家は企画者のやりたいことを吟味しつつ、それをさらに面白くするためのアイデアを考えねばなりません。一方の脚色は、小説や漫画という文字や絵の世界で完結しているものを、映像の世界に置き換えていく作業です。それに加えて映像になったときにとても面白いものにしなければなりません。単に2次元のものを3次元に置き換えていくだけの作業ではないと僕は思っています。
映画『七人の侍』や『生きる』、『砂の器』などの脚本家である橋本忍氏が自著『複眼の映像』の中で「脚色」という作業についてこんなふうに言っています。映像業界ではとても有名な言葉です。
牛が一頭いるんです。柵のある牧場のようなところだから牛は逃げられない。私はこれを毎日見に行くんです。雨の日も風の日も、あちこちと場所を変えて牛を見るんです。それで急所がわかると柵の中に入って鈍器のようなもので一撃で殺してしまうんです。そして流れ出す血を持ち帰って仕事をするんです。原作の姿や形はどうでもいい。欲しいのは生き血なんです。
今の時代では生々しすぎる喩えですし、「原作の姿や形はどうでもいい」という言葉はそうは思えません。撮影現場で「現場では脚本はどうでもいい」と言われるのは耐え難いものがあります。それでもこの橋本氏の言葉には脚色という仕事のすべてが詰まっているように思えます。この発言の中の「牛」が、言うまでもなく原作のことです。
僕程度のライターでも、原作ものの仕事、つまり脚色の依頼がくれば、その原作を何度も何度も読みます。一読してとても面白かった!と思っただけでそれを脚色することなど到底できません。橋本氏が「あちこちと場所を変え」と言うように、いろんな角度から何度も読み込んでいくと、この原作はこういうことかもしれない!とその本質を発見するような瞬間があります。つまりそれが「急所」です。原作の小説や漫画を映像として見せるにはこうすればすごく面白くなるのではないかと急所を発見した瞬間、それはファーストシーンをこうしようと思ったり、新たな登場人物を加えてこんなふうに見せてはどうかと思ったりなど様々なパターンがありますが、とにかくとてもワクワクする瞬間です。トリハダが立つような興奮に包まれることもあるくらいで、これが脚色という仕事の醍醐味かもしれません。
ただ、その結果、原作から大きく姿形が変わってしまうことがあります。それを原作者の方がどう思われるのかというのはいろんなケースがありますが、僕個人の小さくて狭い範囲の経験から言うと、原作と姿形が変わっていても、雨の日も風の日も牛を見つめて急所を発見したうえで映像化されている作品は面白くなっている印象があります。橋本氏が松本清張の短編小説を脚色した映画『張込み』は原作にはいない人物も登場しますが、映画も傑作だと思います。脚本家が新たに構築して、たとえ原作と姿形は違っていてもその生き血がドクドクと流れているものは、原作の魂を踏襲した映像作品として新たに面白いものに生まれ変わる可能性もあります。脚色の際に脚本家が原作を何度も何度も読み込むことは当然ですが、ときには原作と距離を置いたり、原作者および原作周辺のことを調べ回ったりしてようやく急所を発見できるような場合もあると思います。これも当たり前かと思いますが、原作を与えられたとき、たいていの脚本家はその原作者の他の作品も読みます。急所を見つけるためのなにか手がかりはないだろうかとのたうち回っているからです。
脚色とは大変な仕事なんです、と言いたいのではありません。脚色という仕事が世間から理解されにくいことについては忸怩たる思いはありつつも、自分たちの責任も大いにあると思いますのでやむをえない部分もあるかと思います。ですが映像業界の方々からの脚本自体への無理解が今回の痛ましい出来事の一因にもなってしまったように思います。映像という世界において、その企画の始まりは企画書であったりプロットであったり原作であったりと多くの場合は文字からスタートするのですが、完成作品に残らないがゆえに「文字」(漫画も含む)を軽視する傾向にあるのだと思います。悲しいことですが、これは映像業界の中ではあまりにも目立たない文字担当という部署にいる脚本家の多くの方々が思っていることではないでしょうか。
ついつい「脚色」というテーマから離れてしまいましたが、最後にもうひとつ、脚色の仕事で大切なことがあります。先の橋本忍氏の言葉は氏の師匠でもある伊丹万作監督とのやり取りの中でのものですが、その伊丹万作は「この世には殺したりはせず、一緒に心中しなければいけない原作もあるんだよ」と答えます。これは「原作通りに忠実に書くしかないこともあるのだ」という意味にもとれますが、ここでもうひとつ別の言葉をご紹介します。たしか偉大な映画監督の発言だったかと思いますが(どの監督だったのか自信がちょっぴり持てないので名前は伏せます)、「答えは原作に書いてある」と言った監督さんがいます。まさにその通りだと思いますし、伊丹万作の言葉の意味もおおよそ似たようなことではないかと僕は感じています。
脚本家は原作と対峙して、悩んで悩んで悩んで悩み抜いて、結局最後にはだいたい原作に戻るのではないでしょうか。そこまで悩んでようやく原作に戻れるのです。ああ、原作通りにするのがベストなんだなと発見するのです。ですがそれでも、形として原作をトレースするということにならないケースも多々あります。形はそうなったとしても、原作通りに書いたし、そうするのが一番良かったと脚本家は胸を張って思えるのです。原作をリスペクトするということは、作品をそのままトレースするということではなく、原作者がその作品を生みだした脳内というのか志向というのか、その深淵にかすかにでも触れるところまで考え抜くということではないかと思うのです。その結果、脚色によって原作と姿形が変わることもあるでしょうし、トレースしただけと思われてしまうくらいそっくりそのままのこともあるでしょう。ですがそれは単に「脚色」という作業の結果でしかなく、そこにたどり着く道は、橋本忍氏の言葉に尽きるのではないかと思います。雨の日も風の日も、急所を発見するまで毎日牛を見に行くしかないのだと思います。
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