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祈ること。美しさ ブータン日記2

シーツがやけにパリッとしていた。いつもよりも固い。
頬をシーツから離し、体を反転させる。仰向けになって、目の前の空間を見るともなく見つめた。暗くて視覚的な情報はほとんどない。分かるのは、早朝に目を覚ましたことくらいだ。
寝ぼけた頭がスッキリするまで、布団の中から動かずにぼんやりする。いつも通りの寝起きだ。
部屋が広いし、布団も違う。自宅ではないと気づいたのは意識がはっきりしてから。混乱しかけてから、ここはブータンなのだと思い出した。
初日は空港の近くにあるホテルに移動して、主催者やランナー、ブータンのスタッフとの顔合わせを済ませ、そのまま一晩を過ごしたのだ。
時計を見ると、午前5時を過ぎたところ。まだ夜明け前だった。時間は十分にある。ベッドからのそのそと起き上がり、1日を始める準備に取り掛かった。何をするにもまずはジョギングだ。
着替えてドアを開けた。湿り気を帯びた空気が流れ込んでくる。ヴィラタイプのホテルのため、部屋から出ると、そのまま外につながっているのだ。

まだ夜明け前。Tシャツだけでは少し肌寒いが、ジョギングに行くランナーが揃うのを待った。初日も走ろうと思っていたら、1人だけで走ってはいけないと主催者から告げられ、グループで走ることを勧められた。野良犬が多く、土地に不慣れな人間のみで走るのは好ましくないと、ブータン人の選手たちも同行することになっていた。
欧米、アジアの6、7カ国から集まった国際色豊かなジョギングであり、貴重な時間である。
そう感じるのは、前夜の顔合わせ後に、レースまでのスケジュールを聞いたからだ。
大会までは毎日、プログラムが組まれており、寺院の見学、移動、政府要人との会見や食事会、選手のインタビュー、そして長距離移動と、朝から晩まで予定がびっしり。
そして、びっくり。走りにきただけなのに、前首相や政府の関係者に会うのだ。VIP待遇すぎる。そういえばホテルも立派なつくりだった。
しっかりとした待遇ゆえに、思っていた以上に団体行動が多い。1人でフラフラで歩くことも、自由な行動もできそうにない。本音を言うと、標高5,000mを走るための高地順応に時間を割きたかったが、そんな時間はなかった。当てが外れたものの、条件はみんな同じ。レース中の苦しみが増すだろうが、それも含めて楽しめばいい。
とはいえ、空き時間を見つけてジョギングをするだけでも苦労しそう。目下の悩みはそこにある。

走りながら撮ったらブレブレ。

ゆるやかな坂道を駆けていく。川沿いに位置するホテルは低地だったようで、そこから伸びた道路は山に向かっていた。棚田がずっと広がっている。
「米を作っているんだ」
隣りを走っているサンゲが教えてくれた。ブータン国際マラソンの優勝者である。息を乱すこともなく説明を続ける。
ブータンの主食も日本と同じように米である。平野が少ないため、栽培できる作物が限られていることもあり、米がもっとも主要な農作物だ。古代米を作っている農家も珍しくないという。
遠目に見ても、稲穂が残っているのが分かる。10月上旬を迎えても、収穫が行われている様子はない。刈り取るのは1~2週間後らしい。2週間ならば、ちょうど大会が終わる時期だ。
「帰ってくる頃には景色が変わっているよ」とサンゲ。正直なところ、帰ってきた時の状態をうまくイメージできない。思いがけないVIP待遇、登ったことのない標高で行われる5日間のレース。すでに予測不能だ。終わった後はどうなっているのか、なおさら分からない。先が読めないからこそ、挑戦しがいがある。
「楽しみだね」と言葉を返した。

あちこちに犬がいる。ホテルにも犬が入り込んでいた。

ずっと山が続いていた。
ジョギングと朝食を終えて車で移動。30分ほどの道のりだ。目的地までは直線距離の割に時間がかかる印象だった。
後々知ることになるが、この区間のみならず、ブータンの道路はほとんどが谷に沿って作られている。曲がりくねった山道、未舗装の荒れた路面を通じて、険しい山岳国家だと身をもって知ることになる。
もう1人、日本から参加した飯野航さんは車内でぐったりしていた。いつもニコニコしている日本屈指のランナーだが、唯一の弱点は車に酔いやすいこと。表情をなくしている。こちらから話しかけられる状態ではなかった。
山の中腹で車が止まった。ここから先は山を歩くことになる。標高2,500mから500~600mほど登った先にあるタクツァン僧院を目指す。ブータンの国教であるチベット仏教の聖地だ。別名はタイガーズ・ネスト。日本語では「虎の巣」を意味する。いかめしい名前の響きにふさわしく、断崖絶壁に建てられている。

タイガーズ・ネストに向かうトレイル。途中まで馬に乗っていくこともできる。

道中は和やか。英語のあまり話せない僕が会話のスピードに困っていたくらいで、全員が標高3,000mをなんなく登っていく。
一般的には片道3時間前後、見学や休憩を入れると半日を費やす行程なのだろうが、その程度では誰も疲れたそぶりすら見せない。さすがは、世界中から参加してきた変わり者たちの集団だ。
トレイルの途中にはカフェがあり、テラス席からは切り立った断崖が目の前に見える。その中腹に目指す僧院があった。いくつもの屋根が連なり、想像していた以上に大きい。彼岸と此岸と分けているかのよう。ブータン人なら誰もが訪れるであろう信仰の場所だという。
歩いていくのが困難に思える崖である。よくもまあ、こんなところに建てたものだ。どうやって建てたのだろう。なんのために。さまざまな思いが湧いてくる。
僕たちには分からないかもしれないが、仏僧たちにはここに建てないといけない理由があったのだろう。超長距離を走ろうとするのも似たようなもので、興味のない人からすると同じように、どうして走るのだろうと疑問が浮かぶ。分からずとも、スゴい。それだけでもいい。

楽しいハイキング気分。
ずっと僧院を眺めている女性。犬もずっと寝ていた。

容易に近くことのできない僧院は静謐で厳かな雰囲気だった。瞑想するための場所としては、とてもふさわしい。
内部は撮影NG。神聖な場所であり、写真に撮ってはいけないという。一方で、王様の写真がいたるところにある。僧院の中にも王様の顔写真。なんだか不思議な気がするものの、僕が敬虔なチベット仏教徒ではないからだろう。
ブータン人の選手やスタッフは、仏像や壁画の前に行くたびに祈りを捧げる。両手を合わせて拝むだけでなく、両手、両膝、頭を地面につける「五体投地」で礼拝する。頭が床を叩く音が聞こえるほどだった。
全員が同じように五体投地を繰り返す。誰かにアピールするでもなく、気負っているわけでも、ふざけることもなく、照れもない。朝起きて、おはようとあいさつを交わすように、とても自然な動作だ。心から信じるものがあり、その思いを飾ることなく表現する。僕自身はなにか信仰があるわけではないし、宗教的な意味合いはよく分からない。それでも、一連の所作はとても純粋で、ひとつのことを心底信じているのは分かった。彼らのたたずまいは美しかった。

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