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「霊的無知」と向き合うには(スピリチュアリズム考②)

きのう、こんな記事をアップした。

この新聞紙面にコラムを書いた時、筆者(双樹)は自身のSNSでも内容を発信している。そうした投稿にはポツポツとコメントなどが寄せられる。やはり運について、神・仏や宗教については、人それぞれに考えや信念・信仰があるので、面白い意見が集まってきた。

以下、いくつかの反応を引用してみたい(個人が特定される情報などは省略し、タイポや誤字などはそのままとした。「(※)」は筆者の注記)。

 神との対話にヒットラーが天国に行ったという記載があります。もし事実なら天の摂理である霊性の成長は、収容所のユダヤ人の殺戮とは無関係です。彼が利他的な男であったことは知られています。(戦争そのものは等しく連合軍にも罪があります)。
 ●●(※企業名)のある幹部はかって公認会計士は監査で社会貢献しているから会計士の無償のボランティアは不要と言いました。本気で思っているのであれば、これも高い霊性です。等しく我々全員が生きているだけで社会貢献していると彼らが思わなくてもです。
 僕はヒットラーの罪や会計士たちのこの発言や彼らを弁護し、両者に批判的な僕を非難する者らを心の底から憎悪しています。私の方が彼らと異なり罪深いのは100も承知です。

 幼稚園や保育園で保育士が教える道徳を僕らの誰もが一生大事にすれば世間は平和ともよく聞きます。
 僕はあの世の記憶はないですが、魂?が分子か原子でバラバラになってそれぞれ行く太陽のような場所に飛び込んで混ざり合う経験はしました。幸い煉獄はまだ行ってません。
 生きている間に何かに没頭してこの太陽に何度か飛び込んでから、僕らは共通の前世?来世を持っているという強い自覚を持つようになりました。なぜなら科学史などの偉人たちや仲間たちの魂?の原子?や分子?がそこにいたからです。歓迎されて混ざり合いました。
 同じ空気を吸って吐いて僕らは生きてるいるように。体の構成物が他の誰かや生き物の構成物であったように。遺伝子やアミノ酸などは高分子なのに再利用され続けています。
 靖国の世界観は、だから僕にはとても説得力があります。自分の体験だからです

 〝神との対話〟、とか、天国と地獄、とか、善と悪、とか、、、極めて西洋的文化のように感じます。日本の古来には、こうした二項対立の考え方や文化は、希薄なのではないでしょうか。仏教の一つに、〝救い〟の考え方がありますが、ワタシ的には、キリスト教的な〝救済〟とは、似て非なるものと。広大無辺の阿弥陀の慈悲、とか、56億7千万年後に弥勒菩薩が衆生を救済する、とか、なぁ~んかこう、コッチのが浪漫を感じます・・・。
 有名な「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」は、西洋的にどう解くのか、とても興味があります! 損か得か(何かの対価として死後も優位に)とか、価値(徳)があるとかないとかでは、説明がつかない??

いや~、学びの無い、無知であっても、救くわれる、広大無辺の慈悲。茶化すつもりでも言葉遊びをするものでもなく、私自身は、絶対他力には強く共感しています。

信仰論争は、決着がつきませんので、論争しても無駄かと。小田原の某寺に、「さまざまな正義がある」(ジオンさえも)と書かれていて、おお~!と思いました。法然と日蓮では、めざす世界が違いますのでね、(歴史的には同じ時期でも)ひとくくりに鎌倉仏教とまとめてしまうわけにもいかない、というところでしょうか。

 はい、そーなんです! なので、森羅万象において真実はヒトツではなく、それぞれの道、それぞれの信じるものに、それぞれの真実がある、のではないかと・・・。
 個人的には、ノアの箱舟の救済エピソードには、とても釈然としないものがあります。なぜにたったの1隻? この神こそが傲慢なのではないか・・・。

 全知全能の神の救いに、悔い改めよ、とか、善人であれ、と〝条件付け〟されるのに、最も違和感があります。コレって結局、高い功徳を積め、献金せよ、などの対価の要求に限りなく近づきそうで。。。

双樹(※実際は筆者=私=の名が表記されています)さんの文に触発されました。心に引っかかっていたことを触れます。

歎異抄 第三章より
 原文:善人なおもって往生をとぐ。いわんや悪人をや。しかるに世のひとつねに曰く、悪人なお往生す。いかにいわんや善人をや。
 現代語訳:善人でさえ浄土に往生することができる、まして悪人は言うまでもありません。
 解釈:世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人は言うまでもない。」という。一応もっともなようで、本願他力のすくいの心に反しています。
(中略)
 ですから、この本願のはたらきにおまかせする悪人こそ、まさに浄土に往生させていただく因を持つ者なのです。

私(※コメント主)の解釈:
 『本願のはたらきにおまかせする悪人』って、それは敬虔な信者であり、本当の極悪人じゃないよね。
モヤモヤしている自分を見ていると、私は悟りの道からまだ遠いようです。

普段ならSNSで宗教や信仰、霊に関連した話をしない人でも、何か関連した記事が出ると自分のことを振り返る人は多いようで、本当にさまざまな意見が出てくる。

一方で、誰もがそれぞれの「宗教観」「神観」で信心や信念、そして感想などを語る。だがやはり、スピリチュアリズムによってもたらされた霊的な知識、霊的真理は、まだまだ知られていないのだと実感もする。

各コメントには個別に返信するのは最小限にとどめて、以下のような「コメント」を書いて返答とした。


霊的無知と霊界の信仰について

 皆様、ご意見・コメントをありがとうございます。以下は長い(約2300字)ですが、ひょっとしたら響く人がいるかもしれないと思い、「霊的無知と霊界の信仰」について書いてみます。

 宗教については我が国の憲法でも「信仰の自由」があり、もちろんどなたがどんな宗教を信仰しても問題はありません。ただ、「死んであの世に行ったら、1つの宗教しかないのですよ」と申し上げたら、多くの人は「は?」と思うでしょう。「そんな話は聞いたことないよ」と。

 人生を通して善行を積んできた方が「天国」に行くのはむべなるかな、でしょう。しかし、悪行所業の数々をき散らしてきた奴が、なんかの宗教で「改心すれば」「洗礼を受ければ」「懺悔ざんげすれば」「この教祖を信じて献金すれば」、それだけで天国に行けるというのは、なんか不公正だと思いませんか?

 そんな、冷静に考えればヘンだ、理性的に判断すれば「おかしいだろ」と思われることが、こと宗教とその信仰に絡むと「そんなもんなのかなぁ」と無批判で思っている人が多いのではないでしょうか。

 そんな不公平を許さないのが「摂理」というものなのです。酷いことをしたのに、うまくこの世を切り抜けて責めを負わずに往生したとしても、死んでからあの世で償うケースは実にたくさんあります。それが摂理の公正さです。

 人間は肉体という物質をまとってこの地上に生まれてきています。その肉体は、自身を存続させるため以上に美食にふけることはもちろん、必要以上に金をかき集めたり、種(子供)を残すだけではなく快楽のためにセックスしたりと、「肉の本能」「自己の利益のための行動」にどうしても左右され、囚われがちです。そんな肉体を“牢獄”と呼ぶ人もいます。

 しかし、その肉体は、死ねばちて滅びてしまいます。その後に残るのが霊体です。霊体は、今は肉体と重なっていても波動域(周波数のようなもの)が違うため見えませんが、しかし死ねば、その霊体が肉体から離れて、違う世界=死後の世界に入ります。

 最初に入るのが「幽界」と呼ばれる世界です。そこで人間時代を通じて霊体に染み込んだ「垢」=肉体を持っていた時に染みついた人間の習慣を落として、次の段階である「霊界」に往くことになります。

 地上時代=現世で強固な宗教信仰を持つ人は、その考えが凝り固まって(信じ込んでしまって)いるがゆえに、幽界から脱せず(霊界に行けず)に留まり、いわゆる地縛霊化する人が多く(いや、ほとんどがそう)なっています。

 幽界も霊界も、肉体はなく思念(想念)が自分の周りを形作っていく世界だそうですから、妙な信仰=思い込みがあると、その自分が信じ込んだ概念像から抜け出られなくなるのが原因です。

 肉体はもうありませんから、本来ならば「神様」と呼ばれている無限の意識体からのエネルギーを受けて安らぎ(それが愛であったり、知性であったり、安心であったり、感動であったり)を得られるようにできているのです。

 それが分かるとようやく、霊界に入っていくようになります。その時点で「ああ、神の摂理って、こうなっていて、これに沿うこと、かなうことが自分の魂=霊の成長になり、安らぎを大きくしていくことになるんだ」と気づくのです。それが、最初に「1つしかない」と書いた“霊界での宗教”です。

 ――こうした話も、ほとんどの人が理解しない、理解しようとしないのかもしれません。その状態にあることが「霊的無知」と呼ばれる段階です。

 人類は、この霊的無知の状態に長く陥っているため、自分の得になることや利益を求めて争い、いざこざを起こしてきました。その背景に、肉体本能に根ざした利己主義があるからです。この利己主義が国レベルになったのが国益です。また信仰の違いでも対立してきました。

こうした霊的無知に根差した利己主義から、人類はあまたの無益な戦争を起こしてきました。地上の悲劇の“根本原因”が、この霊的無知だといっていいのではないでしょうか。
 
 記事中にも書きましたが、霊的無知に起因する貧困・飢餓、戦争などの悲劇が蔓延している暗黒の地上世界を「どげんかせんといかん」と霊界の人たちが考えて、霊界主導で始まったのがスピリチュアリズムです。

 最初(1848年〜)は心霊現象で「死後の世界=霊界はある」と認識させ、その後(1850年ごろ〜)は数々の霊訓(地上の霊媒を通じて霊の教えを伝えたもの)を伝え、最後には超高級霊による『シルバーバーチの霊訓』のようなスピリチュアリズムの最高峰かつ集大成を伝えました(1920〜1981年)。
 
 シルバーバーチの霊訓は英国人の霊媒M・バーバネルを通じてもたらされたものですが、それが日本語にも翻訳されて残っています。英語圏と西洋諸国語圏以外で、シルバーバーチの霊訓が全て翻訳されているのは、日本だけです。ただ、英国や他の地域ではその後も、心霊現象に固執するスピリチュアリズムが主流になっているようです(解りやすく言えば、雑誌『ムー』的な興味・関心でとどまっています)。

 しかし、日本では「シルバーバーチの霊訓こそ真実であり、真理だ」と考えた人たちがいました。その霊訓を研究し、数々のエッセンスを体系立てて「真のスピリチュアリズムの思想体系」へと発展させてきた一派がありました。

 それによってシルバーバーチよりもさらに上位にいる超々高級霊の指導を受けることになり、さらに深淵なる霊界の真実・真相が明らかになってきました。それらを一段と深掘りした「霊的真実」を今、まさしく現在、日本を起点に伝え始めているのです。

 ――と、ここまでで『私見創見』よりも長い文章になってしまいましたが、さて、みなさんはどこまで踏み込めるでしょうか。こういう話をし始めて「双樹(※筆者の本名が書いてある)もおかしくなってしまった」と思う人も多いでしょう。それで構いません。

しかし私は、これを伝道・布教しようなどと思っていません。ここに追加で記事を書いたのは「わかる奴だけわかればいい」(朝ドラ『あまちゃん』の名ゼリフじゃないですが)との思いからであり、その意味で「時期が来た人に響けばいい」と考えたからです。

 スピリチュアリズムは、求める人が進めばいい道です。

 実際に私自身も布教活動に巻き込まれたわけではないし、これまで献金やお布施は1円たりとも払っていません(これまでの支出は講座を受けにいく際の自分の交通費くらいですね)。

 ですから、興味がある人にお読みいただくだけで結構です。これ以上の返信は、こちらではしませんのでご寛恕かんじょください。よろしくお願いいたします。


――説得はしない。でも霊的知識は伝える。なかなか難しいことであるが、霊的無知と霊的真理について考える何らかのきっかけを提供できれば、神様は喜ばれるだろうか。

以下は『シルバーバーチの霊訓』から引用する。

「わたしが申し上げることを全部受け入れる必要はないのですよ。あなたの理性を使って、わたしの言うこと、あなたがお聞きになっていることを吟味なさって、わたしに挑戦してください。もしも理性が納得しないものがあれば、どうぞ拒否してください。わたしたち霊団の者は絶対に間違ったことは言わないとは申しておりません。わたしたちは過去の聖人や霊覚者が説きながら神学や教義の瓦礫がれきの下に埋もれて忘れられてしまった真理と同じものを改めて説いているだけなのです。人間の霊的新生、霊的自主独立、経済的ならびに社会的自由への道を教えてくれる、古くからある永遠不滅の真理を瓦礫の下から救い出そうと努力しているのです」

『シルバーバーチの霊訓 スピリチュアリズムによる霊性進化の道しるべ』第3章より引用

▼参考記事

※文中の引用やリンク先の表示にあたっては、スピリチュアリズム普及会の許可を得ています。

(了)

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