2020.11.17<裸足の女神>

世界はドラマで満ちている。

お洗濯の時に通りかかるビジネスマンの歩き方がすーちゃんに似ていてドキドキしながら目で追ってしまったり、遅刻しそうな学ランの男の子が必死になって自転車を歩道に持ち上げている姿とか、たとえば今みたいにカフェの面々のひとつひとつの表情とかしぐさとか、店内で流れているおしゃれなジャズとか、私の頭の中にはあおくんと朔さんが毎日占めていたりとか、この世界はありとあらゆるドラマに満ちている。

私が見ている姿は世界のいっぺんでしかないけれど、きっと世界中こんなドラマチックな日々が流れるように、断片を記録されることもなく流れているんだと思った。イラつくことも、失敗することも、青天の霹靂も、そしてくすしきみめぐみも、どんなこともこの世界で起こっている、間違いなく、この現実に、この地球で。

見果てぬ未来もこの地球で起こることで、過去もこの地球で起こったことで、そしてこの一瞬に私が思う人が限られていることもまたドラマチックで奇跡みたいな偶然と必然が重なっている。

そんなことがどうしようもなく愛しく感じている。いろんな心配がある。朔さんがどこかに行っちゃうのかな?とか、あおくんに今日は会えないのかな?とか、私の仕事はうまくいくのかな?とかいろんんあ心配がある。でも、このドラマチックな世界で、ちょっとした悲劇もまた美しさを助長するスパイスなんだって思う。すべてが美しくてすべてが愛しくて、すべてが考察対象で、すべてのバックには何かしらの大きなものがある、そんなふうにまたひとつ理解できるといいな。そんなことを思う火曜日。

私は長い間「裸足の女神」になりたかったの。ビーズの裸足の女神みたいな女性になりたいと思って、なろうと思って目指してきた。小さい痛みはぐっとこらえて、前を向いて笑っているような、ヤジを飛ばすくらいなら誰かを抱きしめて気持ちを消化するような、そんな女性を無意識にも目指していた。

「傷を隠さないでいいよ」そんなことを思ってもらえるだけでうれしかった。でも私の傷なんて、というよりも傷だと自覚している時点でまだまだ青いし、裸足の女神には慣れてないのだと思った。

でもね、あおくんがいる日常を得ていることが、朔さんが私だけを見てくれている日常を手に入れた今が何よりも私を裸足の女神にしてくれている。だって、私を必要としてくれているから。求められることはうれしいこと。

たぶんひとりで泣くことは生涯やめられないと思う。でも再会した時にあおくんがあおくんらしく、朔さんが朔さんらしく私と相対してくれればもう怖いものはない。そして私は本物の裸足の女神にまた一歩近づけるんだと思う。

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