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『ゆめパのじかん』と自分の失われた子ども時代

観てきました『ゆめパのじかん』。
川崎市にあるプレイパークの様子を映したドキュメンタリー。

そこは、子どもたちが
思い思いに過ごせる無料の複合施設。

「何をしてもいい。
何もしなくてもいい。
君は君のままでいい。」

不登校の子どもたちも数多く集まっている。

全身全霊で遊んでいる子どもたちの姿を見て、羨ましくなった。

私が経験をしたことがないような時間が流れていた。

「不登校の子ども」と聞くと
その子自身に問題があるように見えてしまいがちなのは、
マスコミがそのような視点でしか取り上げないからなのだと思う。

このドキュメンタリーみたいに
子どもの話を聴くと実際は、
不登校の子たちは特に世の中に覚える違和感に敏感で、
拒否をすることで意思疎通ができていて、
健全だということに気付かされるはず。

この不自由な社会の中で比較的、
自由な発想と行動をしているように見える。

私には、それをする自由、自信が早い段階から奪われていた。

それは、4歳くらいの時に、父親から猥褻をされて、
自分の感覚を始め、何もかもが分からなくなったから。

ただ、イメージの中の幸せな家族の一員になりきるのに必死で、
頭で考えて、行動して、心は常に置いてきぼりだった。

不登校なんてとんでもない。
自分以外に問題があるなんて思うなんて、タブー中のタブー。

高校の時、誕生日に仮病を使って早退したのが精一杯だった。
家に帰りたかった訳では勿論ない。

ただ、そんなに中良くもない友達からもらった風船2つを持ちながら、自分の誕生日であることを全校生徒に晒すほど屈辱なことはなかった。

(アメリカにあった私の学校では当時、誕生日は女子同士、風船をあげ合うのが流行っていた。人気者は大量の風船がプレゼントされているなか、2つしか持っていないのは恥ずかしかった)

だから、ゆめパに通える子どもたちはまだ恵まれているし、
不登校が通用する家庭に育った子どももまだ恵まれている。

深刻なのは、学校に普通に通えて問題がないように見えても、
自分の心が置いてきぼりであることに気づくことも許されなかった私のような子どもたちがきっと、大勢いること。

このドキュメンタリーを見ながら、自分の失われた子供時代と照らし合わせ、そんなことに思いを巡らせていた。

「子どものとき、大人がさせようとしたけど、できなかったことって何がありますか?」

上映会後のトークイベントで司会が登壇者に聞いた。

「焦らされたことです」

練馬のプレイパークのスタッフで元不登校だった男性はこう答えた。

確かに。

大人は常に子どもに今より将来のことを考えさせようとする。

将来の夢は?どんな職業に就きたい?

また、私の母親はすぐ怒る人だったが、怒られる時も焦る。

大人が不安を助長することばかりすれば、子どもが身動きできなくなってしまうのは当然のこと。

ドキュメンタリーを見ている間、
意識が遠のいた瞬間に、涙が流れた。

「行ってみたかった場所に
怖いものは何もないから
大人は子どもを生み
子どもは奇跡を生む
この風景はいつしか歌になるよ」

BGMで流れた児玉奈央さんの曲「MAKER」の歌詞に反応していたようだ。

上映会に参加している人の中に親子が多く見られた。

子どもの支援をしている団体の人も多かったよう。

私はどっちでもないけど、

「ゆめパのじかん」を見ながら、

自分の中にいるインナーチャイルドを労り、

その子の成長を祝福できたと自負している。

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