これまでの人生を振り返る

こんばんは、荒井慶介です。

現在、名古屋大学情報学部4年生であり、卒業研究に励んでいます。

年末という機会なので、これまでの人生を振り返ってみようと思い、noteを書くことにしました。

(追伸:2020年内に書ききることができずにお蔵入りとなっていたこの記事ですが、あるきっかけで公開させねば!と思い再び書き始めました。)


(株式会社GOAL-Bさんという、個人的に気になっている企業の新入社員の方がよく人生を振り返る内容のnoteを書かれており、そのオマージュでもあります。)

前置きはこのくらいで、早速本題にいきましょう。

生誕

1998年5月。

群馬県の東端の町で生まれる。
もちろん僕は知らなかったのだが、ちょうど同じ頃に父方の祖母が無くなったらしく、僕が生まれた時は大変だったそう。知らんけど。

この頃の思い出はほとんどない。

保育園

家から歩いて5分くらいの保育園に通う。歩いて行ける距離なのに、自転車にのせてもらっていた様な気もする。

保育園の思い出はいくつかある。

そんなに面白くもないので箇条書きで済ませる。

1.山からマウンテンバイク(?)で駆け下りる遊びが流行する。
2.保育園の向かいのコンビニでトーマスのガムを買う。
3.ガンダムに出てくる緑色のやつ(今調べたらハロというらしい)の争奪戦
4.一人だけ発音が下手で「言葉の教室」に通う。そこで見かけて牛乳パック工作を自作し、保育園に持ち込んで遊ぶ。
5.兄の小学校の体育祭の時に、小学校の校庭にある山で、いつも遊んでいるカービィのゲームソフトのオープニングを初めて見て「恐怖」という感情を覚える。

画像1

(なぜか僕らの間で人気だったハロ)

画像2

(僕に「恐怖」という感情を植え付けたゲームソフト)

書き忘れていたが、小学校に入る前から僕はテニスをしていた。両親がテニスをしていたことで、テニス教室に通わせてくれたらしい。

ただ、そのテニス教室で僕は泣き出して逃げ出してしまったらしいが。僕は全く覚えていない。

小学校

保育園の隣にある町の小学校に進学。

この小学校は令和2年3月末で廃校となった。僕の頃から在校生徒数は少なかった。僕の学年は男女合わせて19人しかおらず、下の学年には一学年で男子が5人しかいない学年もあった。僕が高学年に上がったくらいに全校生徒数が100人を下回った。

たまに校長先生と校長室で給食を食べる機会があった。その時、校長室に掲示されている年度毎の在校生徒数をグラフにした表を見て驚いた記憶がある。戦争があった頃にはこの小学校には944人の生徒が通っていたらしい。

小学校での思い出を3つほど紹介する。

1.小学2年生の頃に廊下に立たされたこと。
2.小学3.4年生の頃に自分で自分を傷つける様な言葉を校庭にかいて先生に呼び出されたこと。
3.6年間ずっと持久走で1位を取り続けたこと。
4.「テニス」で自分が目立つことが嫌だったこと。
1.小学2年生の頃に廊下に立たされたこと。

小学2年生の時に、授業中に紙飛行機を投げて、怒った先生に廊下に立たされた。

その時、紙飛行機を作ることがブームになっていた僕のクラスには床に紙飛行機が落ちていた。
そこで僕は当時ハマっていた「抽選で1名様に差し上げます」的なことをいいながら授業中に紙飛行機を投げたんだったかなあ。
案の定先生に怒られて廊下に立たされた。

廊下に立たされたことを恥ずかしいと思っていた僕は他の人が来ても見られない様にと、水道の近くで隠れて廊下に立とうとした。それが、先生には水を飲みに行こうとした姿に見えたのか、「水飲みに行っていいとは言ってない」と言われ、また怒られた。

(この先生には5年生の時にも担任であったり、児童会などでお世話になった。)

2.小学3.4年生の頃に自分で自分を傷つける様な言葉を校庭にかいて先生に呼び出されたこと。

当時、いじめがニュースに取り上げられたことがあったと思う。その時、「いじめ」の感覚を知ることができなかった僕は、「自分で自分をいじめたらどうなるのだろう?」ということを考えた。

そこで、テレビドラマで見た机の落書きの様なコメントを校庭に木で書いた。

先生に呼び出された。それ以上のことはよく思い出せない。

3.6年間ずっと持久走で1位を取り続けたこと。

小学校に入っても僕はテニスを続けていた。低学年の頃は近所のテニスクラブに通い、その後も県を跨ぎながらいろいろなクラブに通った。

テニスの練習の一環で他の人より走っていたせいか、少しは足が早かった。
(特に長距離走)

ちなみに、同じテニスクラブには、箱根駅伝で優勝するほど実力のあるチームに長距離走で進学した人もいた。

そんなこともあって1年生の時の持久走大会を優勝することができた僕は、その年に6年連続で持久走を優勝し、トロフィーをもらっている人の姿を目にする。

それがあったおかげで「トロフィーが欲しい」という思いから6年連続で持久走大会で優勝したいというモチベーションが湧いた。

そして、それを達成した。

画像3

(6年連続で持久走大会を優勝したことでもらったトロフィー)

4.「テニス」で自分が目立つことが嫌だったこと

保育園自体にはコートから脱走してしまうこともあったようだが、小学校に入ってからもテニスは続けていた。

また、そこまでテニス人口が多くなかったこともあり、早い段階から県大会優勝や、関東大会出場という結果を残すことができていた。

僕が通っていた小学校では、郊外の活動であっても、学校に持っていくことで全校集会の際に校長先生から表彰してもらえる、的なイベントがあった。
(今思い返せば、子供に自信を与えるとても良い取り組みだと思う)

ただ、それが僕によっては辛い時間となってしまう。


ある時、僕よりも学年の低い子がこんなことを言っていたということを耳にした。

「(荒井慶介が)表彰されると集会の時間が伸びて嫌だ」

確かに。盲点であった。


ただ、子供の頃の僕に取って、その言葉は

僕は悪いことをしている

と変換されてしまった。

それから、学校でテニスの話をすることが嫌になってしまった。

クラスメイトから、テニスのことで褒められても、嫌な気持ちになることの方が大きかった。それどころか

「僕がテニスをしているところなんて見たこと無いくせに」

などと冷たいことも感じてしまうほどであった。

以上が小学校の中で特に印象に残っている思い出だ。

6年間一回も学校を休まずに皆勤賞を取っただとか、浅草で外国人にインタビューをしてお土産をもらったなど、書いているうちに他にもいくつか印象的なことを思い出したが、とりあえず先に進むことにする。

中学校

一瞬、ほんの一瞬、私立中学への進学も考えたが、(親の影響)入試問題に絶望してそのまま効率の中学校へと進学した。

中学校では、陸上部に所属した。理由は、テニスを続けながらも、何かしらの部活動に入った方が良い、と親が言っていたからだった様な気がする。

これは、あるあるなのかもしれないが、野球やサッカーのクラブチームに所属している生徒は陸上部に所属し、クラブの練習がない日に部活動に参加し、大会の日程が合えば、大会に出場する、みたいなことをしていた。

それのテニス版ということだ。

土曜日の陸上部の練習がテニスコートの近くであったため、陸上部なのに、テニスラケットを持って練習に行き、そのままテニスコートで練習をするみたいなこともよくやった。

中学2年生になると、もっとテニスで勝つためにとクラブチームを変えた。というか、親に変えることを進めれ、その意見に特に反対することなくそのまま従った。
(こういう時に、自分はどうやって決断していたのだろうか?)

そのクラブチームはとにかく練習がキツかった。

練習前に30分くらいダッシュする様な遊びをして、2時間くらい練習して、その後練習試合をして、最後にまた走り込むということをやっていた。

大体午後1時くらいから7時くらいまで(練習試合の時間にコートが空いていない時は休めるが)、ずっと動き続けていた。

雨でコートを使えない時も、ずっと走っていた様な気がする。

おかげで足が早くなり、1年生の頃には端にも棒にも掛からなかったにもかかわらず、3年生の頃には陸上部として郡大会で優勝して県大会に出場できた。

テニスの方もそこそこ結果を残し、県大会で準優勝したり、都県選抜チャレンジカップ(各県での予選を勝ち上がった選手のみ出場できる大会)で優勝したりした。


学校では、いわゆる真面目キャラで演技していた。

自分にとって不都合な事実(主に下ネタ)は、知らないふりをしてやり過ごした。いわゆるムッツリというやつだ。

勉強も、500点満点のテストで494点をとってしまうくらいだったので、周りからは「頭良いキャラ」としてみられたかったのだ。

また、生徒会にも立候補し、副会長として、一つ上の代の卒業式で送辞を読ませてもらった。とても緊張したことを覚えている。


進路先としては、ずっと兄と同じ進学先を考えていた。高校でテニスを続けるつもりはなかった。が、体験で兄の高校のテニス部の練習に参加した時に雰囲気が嫌になって進学先を県内の高校に変えた。

親が言うには、県内の高校の先生から「ぜひ来てください」と言うラブコールがかかっていたらしい?(本当かは知らない)

せっかくなら、とスポーツ推薦の入試を受けたら受かってしまい受験終了。みんなが試験勉強に取り組む教室で同じく推薦で合格してしまった生徒とずっと話していた様な気がする。

画像4

(中学の卒業式の写真。ピントがズレている。)

高校

スポーツ推薦で合格した高校だったが、自分としては、一般入試でも入学できると思っていた。なので、勉強も頑張ろうと思った矢先、最初のテストで数学だけ平均点に及ばなかった。実は、中学の頃から、数学の先生が変わったことがきっかけで数学が好きでなかった。この数学嫌いには受験生になって大いに苦しめられる。

高校時代は、月日を追って振り返るとする。

高校1年生の春

授業が終われば、念願のテニス部での活動が始まった。学校と、それ以外の二つのコートで練習するマンモスチームだったが、なぜか最初の大会からレギュラー(7人しか入れない)に選ばれた。

しかも、最初の大会の時には応援だけかと思っていたら急に試合に出ることになった。応援で立ち続け、ガチガチになった体を急いて解そうとアップに向かったことを覚えている。

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(団体戦前の円陣の様子)

春のうちは「団体戦」という独特の雰囲気に対応できずなかなか結果を出せなかった。

このあと、夏の合宿に携帯電話を持っていくのを忘れるという珍事件を起こす。

高校1年生の秋

秋になるにつれて「高校テニス」と言うものに適応できた気がする。新人大会ではシードを破って5位入賞を果たした。

団体戦でも県大会で準優勝し、関東大会へと駒を進めた。

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(こちらも試合前の円陣の様子)

関東大会では初めての泊まり込みの遠征でテンションが上がる。

画像7

(OTAを作りたかったのに、カメラのことを考えてなくて逆になったの図)

今大会では4試合中3試合で勝利をすることができた。
一番大切な試合(勝てば自力で全国大会出場が決まる)で勝てなかったのはドンマイ。

特に、最後の11位決定戦では、タイブレーク(7ポイント取ったら勝ち)の4-6から逆転して勝利し、チームの勝利に貢献した(というか、そこで僕が負けていたら負けだった)。
その時戦った選手は大学生になって日本一になっている。

本来関東から全国大会へは9校しか出場できなかった。しかし、近年「推薦枠」というものを使い、10位の高校も全国大会に出場することもできていた。

僕たちの顧問はテニス部の顧問としての経験が長く、僕たちが推薦枠で全国大会に出場できる様に尽力してくれたらしい。(ボランティア活動をしているとするために、一回だけ学校周辺のゴミ拾いもしたことがある)

結果、推薦枠で僕たちの全国大会出場が決まった。正直、伝えられた時には「全国大会に出場する」という実感はあまりなかった。

しかし、全国大会出場が決まってから、僕は浮かれてしまっていた。まるで、自分がヒーローであるかのように思っていた。

そんな風だから、全国大会前の練習試合でも、よく無い負け方とかをしていた気がする。

番外編:全国大会

全国大会は博多で行われた。

初めて学校のお金で飛行機に乗り、商業施設に併設されていたいホテルに宿泊し、遠征先でいろいろなテニスコートで調整を行って試合に出場した。

正直、かなり恵まれた条件で大会に出場できたと思う。

これも、一重に長年顧問として、様々な部分へ配慮をしてくださった先生のおかげなのだろうと思う。

画像8

(練習先のコートで撮った写真)

肝心の試合では、1回戦で、北海道代表の学校に勝利し、2回戦でシード校にボコボコにされた。

この大会では、団体戦だけでなく、各校のNo.1登録の選手のみが出場でき、優勝者はUSオープンへの道が繋がる、という大会も併せて開催されていた。

当時から自分はNo.2登録されていたので、ヒッティング相手として他のメンバーよりも長く福岡に滞在した。

また、最終日、余った時間で顧問の先生と太宰府を観光しにも行った。

(ちなみに、これらの移動などに僕はお金を出していない)

本当に恵まれた経験であったと同時に、来年こそは、関東大会で9位以内に入り、実力で出場したい、と強く思った。

高校2年生の春

正直、高校2年生のこの時期は、本当に調子に乗っていた。

先述の通り、ラッキー賞で全国大会出場を果たしており、

「なんか俺もうすごいんじゃね?」

と思ってしまった。

結果として、練習や試合の場面で頑張ることをやめてしまった。

今でも、これは本当に良くなかったと思う。

試合をする前に、そもそも、勝ちたいと思っていなかった。

だから、適当に試合をし、負けた。


一つ、インターハイまで後3ポイントという試合もあった。が、負けた。

が、あまり悔しくなかった。そんな感じだった。


ただ一つ、良い試合ができたとすれば、関東大会での団体戦で、格上相手に圧勝した試合だ。

この試合は、高校生になって初めてくらい、父親が観戦にきている試合だった。そのため、いつも以上に、気合が入ったプレーができたと思う。

(学校としては負けてしまったため、関東大会ではこの試合しかしていない)

勉強面でも、「中だるみ」を体現し、一時はテストの順位が3桁に転落しかけたこともあった。

高校2年生の秋

春の大会が終わって先輩方が引退した後、僕らの代になった。

消去法?なのか、先輩や先生からの推薦だったか忘れてしまったが、部長になった。

部長になって、いろいろな場面で意見を求められることが増えた。

練習のメニューや、練習後の整備、日々の器具の準備などだ。

その多くの場面で、僕は多分そうなんじゃないかと思う「ルール」に従った回答をしていたと思う。「誰かがそう言ってた」とか「先生、先輩がそうしていた」みたいな感じだ。

脳死でそう言った返事をしていた。


ただ、テニスに対する意識は高まっていた。冬の大会で絶対に実力で全国大会出場を掴み取りたいと思っていたからだ。

結果もついてきた。

群馬県のB級大会という、大人も出場する大会で優勝した。

小学校以来の県大会レベルの大会での優勝で、とても嬉しかったのを覚えている。

画像9

また、この成績が自信となっていたのを覚えている。

高校2年生の冬

今年も団体戦での県大会予選を突破し、関東大会が近づいた頃、レギュラーの一人が病気のため、複数日練習に来れない状況になってしまった。

絶対に全国大会に行きたいと思っていた僕は、とても不安になり、非常によくないことだが、その部員を責めるような気持ちも持ってしまっていた。

それくらい、自分自身で自分を追い込んでいた。

そして迎えた関東大会。

関東大会は、トーナメント形式度行われる。その中で、負けトーナメントも行い、全校の順位を決める、という方式だった。(今は予選リーグと決勝リーグ方式になったらしい。)

つまり、早く勝てば、早く勝つほど、全国大会出場が近くのだ。

迎えた初戦。

僕は負けてしまった。しかし、先ほどの、病気になっていた部員は勝利をしていた。そして、結果を見れば、僕が勝っていれば、学校としては勝っていた。

そのまま、次の試合に負け、僕らの全国大会への挑戦は終わってしまった。

正直、その後の試合はよろしくなかった。

目標達成のために、うまく周りを巻き込めなかったことを悔いた出来事だった。

高校3年春

高校3年生の春の大会は結構あっけなく終わってしまった。

一応、関東大会にも出場したが、これでもか、というくらいスコラれた。(完敗した)

夏休みに行われた個人での関東大会が終了し、選手としてのテニス活動を引退した。

高校3年生夏

受験勉強を始めた。

それまで、小学校に入る前から、テニスがある生活が当たり前だったので、非常に違和感を感じた。

が、慣れた。


受験勉強は数学で苦労した。というのも、テニスの大会と重なった時期のテスト勉強をほとんど行なってきておらず(テニス部だけ、例外的に試合が近い時は試験期間中であっても部活動をしていた)、その部分がすっぽりと抜け落ちしまっていたからだ。

なので、基礎の参考書をこれでもか!というくらいやり込んだ。

塾にはいかなかった。

いくつかの塾に体験に行ったが、家から遠すぎて学校が休みの日に通うのがしんどそうと思ったことと、教室内がうるさすぎて勉強に適した環境でないと思ったからだ。

結果、家、学校の自習室で勉強にひたすら取り組む生活を送っていた。

とにかく不安だった。


その不安を解消するため、一年の間で特定の時期にのみ行われる学習量調査を、そうでない期間も担任の先生に毎日提出していた。

勉強時間を長く確保すること」が僕にとっての正義だった。

登下校の電車の時間も、英語を聞いていたり、参考書を読む時間は計測し、学習時間として追加した。

毎日の振り返りをかき、その欄に担任の先生がどのようなコメントを返してくれるのかを楽しみにする生活を送った。


また、受験をするにあたって、受験校をずっと決めかねていた。


元々、僕は京都大学に行きたかった。

京都が好きなのと、任天堂の本社があるからだ。

だが、1年生の夏の模試にたまたまC判定をとって以降、京都大学の判定がD判定であり、「自分には無理なのかな」と思うようになってしまった。

ちょうどその頃、テレビ番組によく登場するようになった落合陽一さんをきっかけに筑波大学に興味を持ち、筑波大学への進学を考える。


そんな中、担任の先生と面談をしていたら急に

「名古屋とかどう?」

と聞かれる。

僕は、

「それって私立ですか?」

と答えた。

それが、現在通っており、この春から大学院に進学する予定の大学とのであいだ。

そこから、長い間、筑波と、現在の大学とで志望校が揺れ動く。
(ただ、対策はずっと、現在の大学のものを行っていた)


僕の学校では、伝統的に受験生を対象に「学習合宿」というものが行われる。

学校のみんなでバスに乗って旅館に泊まり、缶詰で朝から晩まで勉強をするのだ。参加する前は、絶対非効率だと思っていたが、なんでか参加した。(先生に勧められたんだっけ?)

その学習合宿では、学習時間があらかじめ決められていた。

そこで可能な学習時間(1日10時間40分だった気がする)に不安だった僕は、先生方に、指定されていない時間、朝の時間に勉強できないかをお願いをし、朝の時間も場所を設けて勉強を可能にさせてくれた。

(あまり、朝も勉強したい!というわけではなかったが、言い出してしまった手前、毎朝参加した)

そんなこともあってか、学習合宿で、僕は、最長時間学習者として学年主任の先生に指名され、終了の言葉の発言を求められた。

(ちなみに、何回か寝坊しているので本当の最長学習者は僕ではない)


とまあこんな感じで

「学習の理解度」よりも、

「学習に当てている時間」に重きを置いていた。

質より、量というやつである。

高校3年の冬

センター試験1週間前にYouTubeでみた、ハイキューの白鳥沢戦(第二セット終盤)にはまり、毎日お風呂でハイキューを視聴するようになる。

そんなこともあったが、圧倒的な勉強時間によって成績を押し上げた僕は、センター試験で自己最高となる81%の点数を獲得する。
(何個か自己採点ミスもあったが)

その時、僕は、推薦入試で合格する、という算段をつけていた。


部活動で、全国行ってるし、部長もやっているし、いけるっしょ。

と思っていた。



推薦入試に出願したところ、一次選考を突破し、最終選考となる、面接試験に進んだ。

ここには9名の学生が残っており、このうち6名が推薦入試で合格となる。

だが、ここの口頭試問でやらかした僕は推薦入試で不合格となってしまう。
(ユークリッドの互除法だけは一生忘れん)

Webで試験結果を確認した時、泣いた。


泣いた。

泣いた。


もうダメかと思った。

実は、センター試験の成績が良かったため、二次試験の同じ大学に出願していたのだ。


不合格となったことを担任の先生にメールで報告し、「僕を推薦で落としたことを後悔させてやる(??)」という決意を決め、二次試験対策を開始した。

(ちなみに、その時に止まったホテルも、面接の前日の夜に食べた味噌煮込みうどんのお店も覚えている)

センター試験後は学校での授業がなくなる。

私立試験の入試がある影響で、生徒が揃わないからだ。

だから、元々、自宅 or 最寄りの図書館でしか勉強をしようと考え、電車の定期券を解約していた。

しかし、集中力を今まで以上に増加させるため、一ヶ月間だけ定期券を契約し、毎日学校へ行った。

そして、私立もたくさん受けた。

が、センター利用も、個別試験も、全部落ちた。

全落ちで、国公立大の二次試験日がやってきた。

あまりの緊張と、慣れないホテルのせいで、1日目の試験前はほとんど眠れなかったのを覚えている。

気合で1日目の問題を解き、2日目に備える。この日は無事に眠れる。

2日目。苦手な数学の問題を解く。

試験会場を出た瞬間、

「今、この瞬間のために僕は今まで勉強してきたんだ」

ということに気が付き、涙を流す。


その後、後期試験対策をしながら合格発表の日を迎える。

迎えた、合格発表の日。

受験者一覧のページには、僕の受験番号が書かれていた。

人生でとても嬉しかった。

高校1年生の時、自分の逆転勝利で自分の学校の勝利を決めた時と同じくらい嬉しかった。


そのことをすぐに先生にメールで報告したら非常に喜んでくれた。僕の合格が嬉しくて涙を流した、とも言ってくれた。

非常にお世話になった先生には、とても感謝している。


大学生

大学1年生春

自分の力で大学合格を掴み取った、という事実に囚われて天狗だった。

意識が高いんだかよくわかんないようなことを言っていたような気がする。


新入生は毎日新歓でご飯を食べられるぞ!と言われ、サークルのビラを集めて4月のご飯スケジュールを立てた。

ある時には、新歓にご飯だけを食べに行ったこともあった。

そんなこんなでいろいろなサークル・部活を見た中で、僕は2つの団体に興味を持った。

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(航空部の体験入部でセスナに登場した時の写真)

それが、ボート部と、海外留学を支援する学生団体だ。

迷いに迷った挙句、部活の先輩の

「本気でスポーツをできるのは、実業団選手にならない限り、大学が最後」

という言葉に背中を押され部活に入った。

大学1年生夏

部活しかしていなかった。

というか、週5で部活があり、週末は泊まり込みでの部活動(しかも朝4時半おき&布団は薄い掛け布団一枚)とかだったので、他のことをする余裕なんてなかった。


ちなみに、大学では、以前から興味があったプログラミングが勉強できる学部を選んだ。

が、意味が分からなさすぎたので、友達にコードを見せてもらえって、それを参考にしたり、時々コピペしたりして課題を乗り越えていた。

(が、最初の学期のプログラミングの課題が終わらず、あわや落単の危機であった。)

後、彼女ができた。

画像11

(大会に出場した時)

大学1年生の秋

それまでは、「新人」ということで、先輩たちとは違う練習をしていたが、代替わりに伴って先輩方と一緒に練習することになった。

練習場所に週5で泊まり込み、学校がない朝と夜に練習を行った。

新人練習時代の成績が良かったので、最初から対校(レギュラー)的なポジションで大会に出場させてもらえることになった。


話が長くなるので割愛するが、このタイミングで、で先輩と衝突した。

というか、部活全体がバラバラになっていた。

非常に楽しくなくなった。

部活だけじゃダメだ!と思い、学生団体に入った。

ただ、「部活が忙しい」と言い訳をつけてほとんど何もしていなかった。


「Mac」を触って仕事をしている感覚、に酔いしれた。

大学1年生の冬

部活も、学生団体もやる気がなくなった。

だが、どちらも止める勇気がなかったので、続けた。

東京に部活動の遠征に行ったら、兄の彼女さんがいた。

中国語のスピーチコンテストに参加し、寝言でも中国語を喋るほど練習した。選んだ文章が難しすぎて敗退した。

画像12

(ちょっとは垢抜けてきた??)

車校の先生に怒られまくって、毎日泣いていた。

大学2年生の春

部活でもそこそこの成績を出し、学生団体でも後輩に仕事を振って何もしなかった。

彼女と別れた。

本当にこの時期は、何を考えて生きていたのだろう。

思い出せない。

大学2年生の秋

忙しさMax。になった。

理由は、「肩書き」を求めまくったからだ。

部活で対校(レギュラーみたいな感じ)になり、長期インターンをはじめ、ご当地グルメをPRするコンテストに出場していた。

その後少しして、大学公認の学生組織を作った。副代表の肩書きを得た。

が、副代表をしてやったことは、毎回のミーティングに参加したことだけだった。

この組織に対しては、ほとんど貢献することができず、1年後くらいに組織は解散した。

大学2年生の冬

一年生の冬に所属した学生団体に所属していた同級生らと自分を比べ、焦る。

いわゆる「意識高い系」になり、ビジネス系のツイッターランドに嵌まり込む。

あるビジネスを行っている人にあって、あわやネットワークビジネス?に足を踏み入れそうな一歩手前まで行く。

大学3年生の春

新入生のためとなるような情報をたくさんgiveした。

そのせいか、新入生とめちゃくちゃ仲良くなった。

しかし、誰一人として、部活に勧誘できなかった。

非常にブラックな実験が始まった。

これまでの2年間でしっかりと勉強してこなかったことを自覚した。

ただ、だから勉強をしようという気にもならず、優秀な友達に回答を見せてもらったり、考え方を聞いて回ったり、先生に質問しまくったりした。

「自分にはコミュニケーション能力がある」と、自分のできなさを誤魔化していた。

大学3年生の夏

講義がなかったので、就活を始めた。

が、意識高い系だったので「就活」というものを斜めに見てしまっていた。

とにかく、社会人に会いまくって、話を聞きまくった。

いろんなところに行って話を聞いた。

軸がなかったので、めちゃくちゃ失敗した。

2020年卒の採用説明会に、たった一人で、しかも、私服で参加してしまったこともあった。

それだけたくさんの人と話したが「自分にとっての正解の仕事」を見つけることができなかった。

また、部活も頑張らねばと思い、いきたいインターンや説明会、選考に参加しなかった。というか、部活を休んでまで参加する勇気がなかった。

そんな中途半端なことをしていたため、どちらに取り組む時でも苦しかった。

大学3年生の秋

非常にブラックな実験があり、中期間のインターンなどに参加したくてもできない日々が続いた。

ある時には、夜行バスで帰ってきて、そのまま部活の朝練に直行した日もあった。

部のために頑張っている同期に対して、非常に後ろめたい気持ちを感じていた。

大学3年生の冬

いわゆる、普通の就活をすべきかなと思って、興味のない企業のインターンに授業をサボって参加した。

そのうち、就活へのモチベーションがなくなり、今は部活を頑張ろうかなと思った。

と思った矢先、コロナで部活ができなくなった。

そんな折、ご縁があってある企業様から内定をいただくことができた。

内定を獲得してからはほとんど何もしなかった。

大学4年生の春

コロナ襲来。

昨年の秋にバイトをやめていたのでお金がなくなってきており、ライティングの案件を引き受けて小銭を稼いだ。

せっかくコロナで時間もあるし、このままの自分ではいけないと思って、GOAL-Bの山宮さんのコーチングに申し込んだ。

衝撃だった。

実は、大学3年生の秋から、友人からコーチングを受けていたのだが、全くアプローチの仕方が変わった。

「こんな人がいるんだ」と素直に尊敬した。

そんな人が「荒井慶介ならできる」と言ってくれた。

自分でもできると思って、いろいろなことに挑戦した。

大学4年生の夏

講義もなく、バイトをしてジムに通う日々を過ごした。

友達とYouTubeの2日に1回更新を行った。
そのうち一つの動画がちょっとだけバズり、登録者が増えた。


大学4年生の秋

部活動が再開できることになり、最終学年だからと最後の力を振り絞って引退した。

引退後、卒業研究が本格化するか!?と思っていたが、あっけなく先生からOKをもらえてしまった。

他の同期たちがしっかりと研究していたりする姿を見て、これまでの大学生活の、勉強してこなかった自分を実感した。

今現在やっていること。

・コーチングの提供
┗コーチングの勉強
・アルバイト(リモート)
・テニスコーチのバイト
・卒業研究&卒業論文執筆
・マンティ福原さんとのオンラインパーソナルトレーニング
<soon>・動画編集のお仕事

ここまで振り返ってみて。

自分が「結果」にこだわってきたのか、ということを感じた。

どの時期を振り返っても、「結果」を大切に考えて行動してきたことが共通しているように感じた。

その割に、諦めが早いというか、自分の限界値を自分で決定することが多いように感じた。



もっと、「できる」と思って取り組めばよかった。

なぜなら、どんな人にも可能性があるから。

そう思った。

そう思える人生を送ってきてしまい、

今後も、そんな人生を送ってしまったら、めちゃくちゃかっこ悪いなと思った。

この文章を書いている時でさえ、「自分をよく見せよう」とか思って書いてしまった。(前半とかはそうだ)

そんなこと、僕がしたかったことなのだろうか。

違うと思う。


「挑戦して、できない姿を見せる」ことが、かっこ悪いことだと勘違いしてきた自分とは、もう決別しよう。




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