見出し画像

ショートショート:ほら吹きの詩

  「恥の多い生涯を送ってきました」
 廃墟ビルの屋上で、僕はそう呟いた。

それから少し俯きながら、ゆっくり足を前に進めた。前方には錆び付いたフェンスが見えた。僕はフェンスに両肘を置き、そっと下を覗き込んだ。廃墟ビルの真下にはアスファルトが敷き詰められていた。これなら、死ねそうだと思った。

 僕は小さく息を吐き、アスファルトに身体を打ち付け、潰れたトマトのようになる自分の姿を想像した。少しだけ、吐き気がした。

 一度深呼吸をして、僕は決意を固めた。そしてゆっくりと、フェンスを越えた。フェンスの先は幅わずか四十センチほどのスペースしかなかった。僕はその心もとない空間に足を付き、空を見上げた。青く澄み渡る、大海のような青空。雲は浮かぶ船のように空を流れ、太陽はイエスの教えのように人々に光を分け与えていた。

 空に向かって、僕は告白した。
「僕は今まで太宰を崇拝して生きてきました。太宰のようになりたいという思いから、どれだけ笑われても毎日毎日、文章を書いてきました。しかし、僕は太宰のようになれませんでした。だからこそ、僕は死ぬのです」


 「ぎゃははは。太宰って!」


 突然背後から笑い声が聞こえた。同時に僕の体はまるで金縛りにあったかのように固くなり、口腔内の唾液は全て枯れてしまった。そして、どうしようもない緊張感とともに、僕は振り返った。

 そこにいたのは、ひとりの女性だった。彼女は右手に缶ビールを持ち、左手にはコンビニ袋を持っていた。彼女は缶ビールを一口飲むと、言った。
 「ねえ、私さ、花見をしながらビールを飲むのは好きなんだけど、さすがに自殺を見ながらビールを飲むのはちょっとね。だから早くこっちにおいでよ。太宰」

 『太宰』という響きが僕の胸をくすぐった。全て見られていたんだ。そう理解すると、同時にどうしようもないほどの羞恥心が僕を襲った。
 
 僕はしばらく何も言わぬまま、彼女を見つめていた。白のTシャツにデニムショートパンツ。すらりとした白い手足。足元のスニーカー。黒のショートヘアが良く似合う整った顔。

 「一体いつから、見ていたんですか?」
 震える声で訊くと、彼女はにやにやと笑いながら言った。
 「最初から。私がここに来た時にはもう太宰はフェンスの向こうに立っていて、急に懺悔を始めたの。私も目の前で人が死なれるのは気分が悪いし、懺悔が終わったら声を掛けようと思ってたけど、可笑しくて、ぷぷ」
彼女は堪えきれないと言った様子で噴き出した。

 「あの、太宰って言うの、やめてもらえませんか?」
 「やめてほしかったらとりあえずこっちにおいでよ。太宰」
 仕方がないので、僕はフェンスを越えて彼女の元に向かった。自殺する気などとうに失っていた。

 「まあ、とりあえず飲む?」
 彼女はコンビニ袋の中から缶ビールを取り出した。「じゃあ」と僕は缶ビールを受け取った。
 「あの、あなたはどうしてここに?」
 「えー、なんだっけ?暇つぶしかな」
 どうやらすでに酔っているようだった。
 「ふう、ちょっと立ってるのも疲れちゃった」
 彼女はその場に腰を下ろし、胡坐をかいてぐびぐびとビールを飲んだ。砂漠の中心で給水するように、彼女の喉は心地よいほどの嚥下音を響かせていた。

 息継ぎもせずビールを一缶飲み干してしまうと、彼女は頬を薄ピンクに染めながら訊いた。
 「んで、太宰はどうして自殺しようとしていたの?」
 「あの、だから、太宰は勘弁してもらってもいいですか?」
 「あ、分かった。太宰の真似をしようとしたんでしょ?でも、本当に太宰の真似をするなら飛び降りじゃなくて入水自殺じゃなきゃ。それに、素敵な愛人を連れていないと完全なるオマージュとはいかないよ」
 「いや、オマージュをしようとしたわけじゃなくて、本当に、死のうと思っていたんです」
 俯き気味に言った僕の視界に、彼女の顔が少しだけ映った。想像に反して、彼女は落ち着いた表情をしていた。「ふーん、じゃあ、まあ、座りなよ」と彼女は言った。僕は彼女に従った。

 「自殺をしようとしたのは、文章を書いても太宰のようになれなかったからってこと?」
 彼女はコンビニ袋からまた缶ビールを取り出し、プルタブを引いた。『太宰』という呼び名についてはやはり羞恥心が芽生えたものの、もうどうでもいいような気持ちになっていた。どうせ何を言っても彼女は僕を太宰と呼び続けるのだろう。
 「はい。太宰のようになろうと思っても、僕の文章は一向に評価されなくて、嫌気が指して」
 話しながら僕は何だか気恥ずかしくなり、一口ビールを飲んだ。まるで油を飲んでいるみたいに、胃の中が重たくなった。
 「まだ若そうだし、今いい文章が書けなくても、いつか世界があっと驚くようなものが書ける可能性だってあるんじゃない?それなのに、死んじゃうの?」
 「その可能性もあるけど、ある時急に自分の書いているものが陳腐なものに思えて、文章が書けなくなったんです。今まで僕は太宰のようになるという目標をひたすら追い続けて来ました。それを失った今、自分自身が廃人になったような気がして。これなら死んだ方がましだと思ったんです」

 「私たちの知ってる太宰は、とても素直で、よく気が利いて、あれで文章さえ書かなければ、いいえ、書いても・・・神様みたいにいい子でした。って誰かに言われちゃうね」

 「人間失格」と僕が言うと、彼女が「ぎゃはは」と笑い「正解」と言った。このどうしようもないやり取りの中で、彼女と通じ合えた気がした。
 「ねえ、じゃあさ。今ここで私が止めても、太宰は自殺をするってこと?」
 彼女は両掌を後ろについて、空を見上げながら言った。

 「多分」
 「そっか」

 「あ」と呟いた彼女は、何かを思いついたような表情で僕を見つめた。
 「ねえ、私に太宰の文章を読ませてよ!もしそれで本当にどうしようもないものだったら自殺すればいいし、私が面白いと思ったら死なないでまた文章を書けるタイミングを待つの。どうせ死んでもいいなら、私に生殺与奪の権を握らせてよ」

 ぽかんと口の開いた僕の返答を待たず、彼女は立ち上がった。
 「じゃあ、また明日、ここで同じ時間に待ち合わせね。ちゃんと文章を持ってくるんだよ」
 背中越しに彼女は手を振った。僕は彼女の背中を目掛けて、「待って」と言った。「何?」と彼女は振り返った。色々と言いたいことはあったが、気付けば僕はこう口にしていた。
 「君の、名前は?」
 彼女は何度か顎先を指で叩き、考えたような表情を見せてから言った。
 「与謝野晶子」
 「冗談だよね」
 「うん、冗談。じゃあね、太宰」
 ビールを飲みながら、彼女は去って行った。
 
 翌日、彼女改め『与謝野晶子』は廃墟ビルの屋上でビールを飲みながら僕の文章に目を向けていた。晶子は酷く熱心に僕の文章を読んでいた。陳腐な僕の文章は晶子の熱い視線に焼き殺されてしまいそうだ、なんてことを思った。

 「ねえ、ビールを貰ってもいい?」
 「いいよ」と晶子は言った。晶子は今日もコンビニ袋の中に缶ビールを詰め込んでいた。

 僕はビールを飲みながら、ぼんやりと空を眺めていた。優雅に揺れる雲とは対照的に、僕の心臓は荒々しく脈打っていた。誰かに文章を読まれるというのはこんなにも恥ずかしいことなのか。この得体の知れない羞恥心は誰かに自殺現場を目撃されることや空への告白を聞かれることなど、優に凌駕していた。

 「読み終わった」
 晶子の声が聞こえると、僕の心臓は破裂しそうなほどに鼓動していた。「ど、どうだった?」と訊くと、晶子は難しい表情をした。僕はその顔から視線を逸らすように、ビールを飲んだ。
 「悪くない。けど、内容が微妙。文章はとても綺麗だし、これぞ純文学って感じなんだけど、それ止まり。純文学って如何にも文章の美しさを競う競技みたいに思われてるけど、それって結局内容ありきだからね。これじゃあ、太宰オタクの自慰行為を見せられているようなものだよ」
 晶子の表情はとても真剣だった。

 「とりあえず、僕はどうすればいいかな?」
 「んー、まあ、文章にセンスはありそうだから生かしておいてあげる。また文章を書こうと思った時は、内容を意識することだね」
 「晶子は、よく本を読んだりするのかな?何ていうか、アドバイスが凄く的確だし」
 僕が訊くと、晶子は自身あり気な表情を見せて頷いた。
 「うん。私は、本を読むのが世界で一番好きなの。世界一の読書家がそれなりに認めた文章なんだから、太宰はもっと自信を持っていいよ。作家になるには時間がかかるんだから」

 晶子はぐっと伸びをして、立ち上がった。
 「私このあと予定があるから行くね。また明日、別の文章を読ませて頂戴。私が添削してあげるから」
 「分かった」

 晶子がいなくなると、僕はその場で自身の書いた文章を読み直していた。制御出来ないほどに胸が高ぶっていた。何度も読んでいると、つい昨日まで陳腐だと思っていた文章が宝石のように輝いて見えた。僕は自然と微笑んでいた。


 誰かに文章を評価されたのは初めてだった。
 

 翌日、廃墟ビルの屋上を訪れた晶子の様子は少し変だった。コンビニ袋は持っていないし、もちろん缶ビールも持っていなかった。それに、ビールを飲んでいないのに頬が少し赤かった。

 調子が悪いのかと問うと、晶子は首を振った。そして、「今日は少し暑いから」と言った。確かに、日差しの強い夏の日だった。

 「ねえ、太宰。早く文章を読ませて」
 僕は言われるがまま、晶子に文章の敷き詰められた用紙を渡した。晶子はまるでパンに齧りつくみたいに、それを読んでいた。読み終えた晶子は顔を上げて、微笑んだ。
 「やっぱりだ」
 「何が?」
 僕の問いに、彼女は優しい表情を浮かべて言った。
 「やっぱり、太宰の文章は生きている」
 「生きている?」
 「うん。何ていうか、文章に全てをかけて来たことが伝わってくるの。それは上手い下手に関わらず、人々の心を震わせる。そんな文章だよ」
 「今日は凄く褒めてくれるんだね」と僕が言うと、「最初から褒めてたじゃない」と晶子は笑った。

 「ねえ、私も太宰に影響されて、文章を書いてみたの。まあ、小説なんて立派なものは書けなかったからちょっとした詩なんだけど、読んでくれる」
 僕が頷くと、晶子が恥ずかしそうな表情を見せてジーンズのポケットから二つ折りにした紙を取り出した。
 「はい」
 僕に詩を渡す晶子の手は、少しだけ震えていた。詩を受け取りその場で開こうとすると、晶子が僕の手を掴んだ。
 「恥ずかしいから、私がいなくなってから開いて」
 「わかった」
 ほっとした表情を見せた晶子は「じゃあ、私行くね」と立ち上がった。そして「また、今度」と手を振った。とても柔らかい表情だった。
 
 晶子がいなくなった屋上で、僕は詩を開いた。しかしそれは詩ではなく、晶子からの手紙だった。

 
 ~背景 太宰へ~
 

  私のことを正直に話します。私は病魔に侵されていて、もうあまり長くはありません。そのことを黙っていてごめんなさい。本を沢山読んでいたのも、病室でやることがなかったからです。
 それに、私は一つ嘘を付きました。それは、太宰が自殺をしようとしていたあの日、実は私も自殺をしようとしていました。病気で死ぬくらいなら自分で死のうと思ったのです。けれど、太宰の恥塗れの告白を聞いていたら、可笑しくてそんなことはどうでもよくなりました。おかげで、天寿を全うできそうです。
 先ほども述べましたが、私はもう長くありません。なので、もう太宰に会うこともないと思います。そんな中で、一つお角違いなお願いがあります。それは私を文章にしてほしいということです。もし書いたら、天国で私を見つけてその文章を読ませてください。きっと才能のある太宰なら、文章の中で私を生かしてくれると思います。

  最後に一つだけ、太宰に詩を送ります。
 

  君死に給うこと勿れ
 
                       ~秋~
 
 読み終えた僕は、駆け出していた。彼女の本名であろう「秋」という名前を叫びながら廃墟ビルの中を捜した。しかし、彼女の姿はなかった。
 

 日が暮れ始めると、僕は家に帰った。そして自然と、パソコンを開いていた。言われた通り、彼女のことを書こうと思った。
 ぽつぽつと、僕は彼女のことを思い出していた。僕の自殺を止めた彼女。僕を太宰と呼んだ彼女。ビールを飲む彼女。僕の文章を褒めてくれた彼女。そして、天国に昇る彼女。
 彼女のことを思いながら、タイトルを綴った。
 

 『ほら吹きの詩』
 

 僕はまた、文章を書き始めた。
 

 「恥の多い生涯を送ってきました」
 廃墟ビルの屋上で、僕はそう呟いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?