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夏の夜の終わりに ⑪

  空き地に着いた時には、額から大粒の汗を流していた。上着の裾を持ち上げ、汗を拭きとる。どうしようもない寝巻で飛び出してきてしまったことにこの時気付いた。
 「どうしたの、そんな必死に走ってきて」
 フェンスに背中を預けた彼女は不思議そうに目を丸めて尋ねる。その瞳はまるで満月の様だった。
 「ちょっと、色々あってね。家を飛び出してきたんだ」
 「それは家出ってこと?」
 「ある意味そうかもしれないね」
 「だからそんな恰好なんだね」
 「うん、とてもいい格好でしょう」
 「今の君にはとっても似合っているわ」
 僕はゆっくりと足を進めて、彼女の元に向かった。そして彼女の隣でフェンスに腕をかけた。
 「今日は木の幹じゃなくていいの?」
 「うん。ここに居たい気分なんだ」
 「そう」
 夏休みということもあり、彼女は私服姿だった。ジーンズ生地のショートパンツに白のTシャツ、そして足元にはサンダルを履いていた。普段の制服姿とは一味違う彼女の様子に僕は少し緊張してしまう。それほどに、彼女の服装はよく似合っていた。
 「今日は何をしていたの?」
 彼女は夜景を見ながら訊いた。
 「夕方に起きて、ここに来た。それだけだよ」
 「どうやら前の生活に戻ってしまったみたいね」
 「そうだね。君は何をしていたの?」
 僕は彼女に顔を向ける。彼女は夜景を見たまま言った。
 「私は、少し勉強をしていたよ」
 「凄いね」
 「そんなことないよ。大学に行くためにはある程度勉強をしておかないとならないでしょ」
 「そうだけど、まだ受験まで一年以上もある」
 「ええ、でも時間って思っているより簡単に過ぎてしまうものよ。だから早めに準備しておくの」
 彼女は得意げに口角を上げる。僕はそんな彼女の横顔を僕は見つめている。彼女は遠い未来に希望を馳せるような、そんな瞳で明るい月を見つめている。いつかその光が自分に降り注ぐようにと願いを込めているんだろう。僕の脳裏にはそんな彼女の希望が浮かんだ。
 「やっぱり君には叶わないな」僕は彼女から視線を外し夜景に目を向けた。相変わらず右にはネオンライトの煌びやかな夜景、左には月明かりに照らされた寂し気な田園風景が映るだけだった。そんな月明かりの夜景は時間の流れに置いて行かれたようだった。
 「この夜景は僕みたいだね」
 「僕みたいって?」
 「何にも変わらないってことさ。もう少し言うと、変わろうとしていない。昨日も、今日も、明後日も、きっと一か月たっても何も変わらないさ」
 「きっと一か月経ったら田んぼの水は干からびているよ」
 「確かにそうだね」
 「それに、君だって変化しているじゃない。今日だってほら、ここに寝巻で来るくらいには」
 「やめてくれよ」
 「変なつもりで言ったわけじゃないよ。ただ、何かあったのかと思って」
 どうやら彼女には全てお見通しの様だった。と言うよりも、僕の恰好が何かを想像させるには丁度良かったのかもしれない。僕はやれやれと肩をあげ、一度深く深呼吸をした。生温い夏の空気が肺に充満した。
 「お母さんに虐められていることがばれたんだ」
 生暖かい僕の息が夏の空気と混じって消える。彼女は僕の感情が混ざった空気を吸い、「そうなんだ」と言った。
 「君が虐めに遭っていることを親は知ってるの?」
 彼女は首を横に振った。
 「言ってないよ。余計な心配をかけたくないからね。ここに来る時も勉強をしてくるって言ってあるんだ」
 彼女は僕に顔を向け、柔らかく微笑んだ。何処となく安心を与えるような、魅惑的な笑顔だった。僕はそんな笑顔に引き込まれてしまう。彼女の笑顔の中で心の栓が抜けてしまった僕は、詰め込んだ内容物を吐き出すように言葉を溢した。
 「僕も虐めについては話してなかった。とても恰好の悪いことだからね。でも、今日それがばれちゃったんだ。どうやら学校から連絡が来たみたいでね。僕が虐めに遭っていること、この前無断で帰ったことが全部お母さんにばれたんだ。お母さんは泣いていたよ。でも、僕はそんな涙を見たって何も思わなかった。寧ろこっちが泣きたかったんだ。夏の夜に響く蝉の鳴き声みたいにね。それで、お母さんは泣きながら僕に言ったんだ。どうして話してくれなかったの、なんてね。話してどうにかなる程度の問題ならとっくに話していたさ。でも、話したところで何も変わらない。先生に僕を虐める相手を叱ってもらえば表面上は虐めが無くなるのかもしれないけど、虐めのせいで学校に行けなかったっていう事実は変わらない。僕はその事実が嫌なんだよ。でも、親とか先生は虐めそのものがなくなればそれでいいんだ。目に見える問題は無くなるわけだからね」
 僕はフェンスの下に広がる暗い闇を見つめる。それは僕の心を表しているようでもあり、僕の未来を表しているようでもあった。暗く、深い闇。もしかしたらそれは排水溝のカビのように根強く僕の心にこびり付いているのかもしれない。
 「物事を解決するのって、きっと解決してからの方が大変なんだよ。物語だと大きな物事を解決してハッピーエンドっていう話が多いけど、もしかしたら何一つハッピーエンドじゃないのかもしれない。例えば大きな戦いがあって巨悪を打ち破ったとしたら、主人公は英雄になれる。だけどさ、その戦いで家屋が壊れたとしたら、その家に住む人はどうするの?
その戦いで大切な人が死んでしまったとしたら、残された人はどうやって生きるの?その戦いで日常生活も疎かになるような怪我を負ったら、その後の生活はどうするの?結局さ、物語の端っこにいる人のことなんて誰も考えてくれないんだよ。もしかしたら悪なんて倒さない方が幸せな生活を送れるのかもしれないのにね」
 彼女は淡々と話すと、僕に顔を向けて微笑んだ。
 「でもね、私はその答えを知ってるの」
 彼女は月明かりのような笑顔を見せる。
 「答えって?」
 「物語が終わってから、物語の端っこにいる人がどうすればいいかの答えだよ。教えてほしい?」
 ハロウィンの夜にお菓子をねだる子どものように、彼女はいたずらな笑みを見せる。
 「うん」僕は頷く。
 彼女は微笑み、言った。
 「それはね、生きること。何があっても生きること。そしてその出来事が未来の幸せに繋がっていると願うこと。それだけでいいんだよ。それだけで、悲しみや苦しみを抱えた意味が見つかる日が来ると思うから」
 彼女の力強い口調はまるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。「そうかもしれない」と僕が言うと、彼女は僕を優しく抱きしめた。彼女の柔らかい感触が僕の心を刺激する。彼女の腕は思っていた以上に汗で湿っていた。僕は余計な気持ちを押し殺して、彼女の背中に腕を回す。そして彼女と同じ力で、彼女の体を抱きしめた。
 「とても嫌な思いをしたね。もしかして、君は今日もフェンスの向こうに行こうとしての?」
 僕は彼女の首元に顔をあて、ゆっくりと首を横に振った。
 「良かった」
 彼女は僕の身体を強くに抱きしめる。少し湿った吐息が僕の額にかかる。
 「今日も生きている。それだけで、君はとても素晴らしいんだよ」
 しばらく僕を抱きしめ、そして彼女は泣いた。彼女の涙が僕の額に触れた。それは夏の夜みたいに生暖かかった。
 

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