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夏の夜の終わりに ⑫

 それから、僕らは地べたに腰を下ろし、肩を合わせて月を見ていた。今日は綺麗な三日月だった。三日月に照らされた薄い雲はぼんやりと輝き、幻想的な雰囲気を醸し出している。
 「三日月の欠けた部分に腰を掛けて、世界を見てみたい」
 僕の肩に頭を乗せた彼女は吐息を吐くように言った。彼女の薄い息がふわりと僕の頬にかかった。
 「そうすればきっと世界の全てが見えそうだね」
 僕が言うと、彼女はゆっくりと首を振った。そして「きっと何も見えないわ」と言った。
 「どうして?」
 「だって、高い所から全てを見渡しても、どうせ目立ったものしか見えないよ。綺麗な夜の街、だだっ広い海、巨大な森、渇いた砂漠。見えるものなんてその程度よ。本当に大事なものなんて見えやしないの。ビルの間で誰かが必死に助けを求めても分かるわけがない。だから、神様は簡単に手を差し伸べてくれないの。本気で助けを請うたり、何かを願ったりするのなら、まずは誰かの目が届くように高い所に登らないといけない。登った上で必死に叫ばないといけないの。それでも気づいてもらえるか分からないけどね。本当に、生きて行くって大変なことね」
 「じゃあ、僕らには目が届かないってわけだ」
 「そういうこと」
 彼女は上目で僕を見て微笑んだ。
 「もう、大分ここにいるね」
 僕が言うと彼女は「そうね」と呟いた。
 「もう日付を回るよ。そろそろ帰らないと家族が心配するんじゃないのかい?」
 ポケットからスマホを取り出し、時間を確認して言った。スマホの画面を切ろうとすると、画面の上端に一通のメッセージが届いていることに気付いた。僕は画面をスクロールしてメッセージを確認する。お母さんからだった。スマホをタップし、メッセージを確認する。「何処にいるの?心配だから早く帰ってきてね」僕は既読を付けたまま、スマホをポケットに閉まった。そして「何が心配だよ」と声を殺して言った。
 「どうしたの?」と彼女が訊く。
 「お母さんから心配だってメッセージが来てたんだ。何も気づかなかったくせに、今更心配したって遅いのに」
 そう言って僕は下唇を噛んだ。そんな僕の下唇を、彼女は人差し指で触れた。そして「可哀そう」と言った。
 「やっぱり、神様は簡単に手を差し伸べてくれないのね」
 「それは君も同じでしょ?」
 「そうかもしれないわね」
 「やっぱり、僕らは日の当たらない世界で生きるしかないんだね。例え今更日の光を浴びたとしても、眩しくて上手く生きて行けそうにない」
 「ふふ、そのセリフまるで詩人のようね」
 「場合によってはね」
 僕らは目を見合わせて、薄っすらと微笑みあった。そんな僕らを、三日月はずっと見ていた。
 「そろそろ帰らないとお母さんが心配するよ」
 「でも、あまり帰りたい気分じゃないんだ」
 僕が言うと、彼女はピエロのように悪戯な笑みを浮かべた。
 「じゃあ、このまま何処かに逃げちゃおっか」
 彼女は僕の頬に触れる。僕はゆっくりと頷いた。
 そして、僕らは山を下った。
 
 
 山道から出た僕らは、特に何を話すわけでもなく足を進めた。目的地のない、見方によっては意味のない旅のようにも思えた。けれど僕の中には本のページをめくるような高揚感があった。
 「何処に行こうか?」僕は田んぼ沿いの夜道を歩きながら、彼女に尋ねた。
 「少し喉が渇いたから、コンビニで何か買わない?」
 彼女はそう言い、煌びやかな夜景を指差した。
 「向こうに行くのかい?あんまり向こうは好きじゃないんだけど」
 「でも、向こうに行かないとコンビニは無いでしょ。ほら、行くよ」
 彼女はどんどんと先に歩いて行ってしまう。僕は彼女の背中を追う。そして隣で足取りを合わせる。
 深夜にこの通りを歩くのは初めてだった。しかし時間帯は違えど、その風景に何一つ変化はなかった。道を挟んで田んぼの反対を流れる川のせせらぎ。揺れる緑の稲。誰も通らない木橋。森から流れるように広がる広葉樹林。蝉は広葉樹にしがみつき、必死に泣き叫んでいる。それは何処にでもあるような夏の夜だった。まるで写真で切り取られたように、この空間は永遠の時間を有しているようにも見える。とても自然的で、感傷的な夏の夜。そこに響く僕らの足音だけが、とても人工的に思えた。
田んぼ道を抜けると住宅街に差し掛かる。住民のほとんどは寝てしまったのか、多くの住居から光は消えていた。時折明かりのついた住居も見かけたが、小窓から少し光を溢している程度だった。その多くは僕らが住宅街を横断している最中に消え、僕らを照らす唯一の光は街灯だけになった。僕らはヘンデルとグレーテルのように街灯の光を頼りにしながら足を進めた。遠くからでは僕らが街灯の下をワープしているようにも見えたことだろう。
 そして住宅街を抜けると、目くらませのような光が僕らを襲う。まるで夜目を光らせる狼のような攻撃的な光だった。僕が目頭を押さえたじろいでいると、彼女はさっさと足を進めて光の中に入ってしまう。その足取りは光に魅了された人間そのものだった。
 「そこのコンビニで飲み物を買いましょう」
 彼女は歩横断歩道の正面にあるコンビニエンスストアを指差した。そしてまたどんどんと足を進めてしまう。横断歩道の信号は赤だった。しかし彼女はお構いなしと言わんばかりの足取りで、赤い横断歩道を渡り始める。
 「ちょっと、まだ赤信号だよ」
 そう呼び止めようとしても、僕の声は彼女に届かない。幸い道路の見える範囲に車はない。僕はしぶしぶ彼女の背中を追う。すると彼女は横断歩道の中央で振り返り、僕に向かって微笑んだ。
 「夜の逃避行は、これくらいデンジャラスな方が面白いでしょ」
 彼女は小動物のような愛らしい笑みを見せた。
 「確かに、それくらいが丁度いいのかもしれないね」僕は軽いため息を吐く。そして「君は生きようとしているのか、死のうとしているのかよく分からないな」と続けた。
 「どっちもよ」と彼女は言った。赤く光る信号を背後に映した彼女の姿は、何処か危うさを纏っていた。けれど彼女はその危うさを持ち前の笑顔で掻き消してしまう。そしてその笑顔は僕を魅了させ、「彼女」と「危うさ」を結びつけるのは無意味だと結論付けてしまう。そんな答えが出る度、僕はほっと胸を撫で下ろす。
 コンビニエンスストアで彼女は紙パックのカフェオレと卵サンドを買った。僕はペットボトルのコーラを買った。コンビニエンスストアを出た僕らは、駐車場のタイヤ止めブロックに腰を掛けて飲食をした。
 「君は帰らなくて大丈夫なの?」
 僕はコーラを一度傾けて、彼女に訊いた。不意に曖気が出そうになり、息を飲み込んだ。
 「大丈夫。年頃の娘が少し帰らなかったくらいじゃ、何も言われはしないわ」
 「そっか、君のご両親は肝が据わってるんだね」
 「案外そんなものよ」
 彼女は卵サンドを頬張り、ゆっくりと咀嚼した。そしてカフェオレと一緒に流し込んだ。
 「寧ろ君のお母さんの方が心配するんじゃないかしら。だって、わざわざ連絡をくれたんでしょ?」
 「うん。でも大丈夫。大して責任感のない親なんだ。だから、こんな風に子どもが家出をしてしまうんだよ。本当に心配しているのなら電話の一つくらいしてもいいのに、それもない。きっともう寝てるんだと思うよ」
 「じゃあ、丁度いいね」
 彼女は食べ終えた卵サンドの袋を手で丸めてコンビニエンスストアのダストボックスに捨てた。そしてしばらくカフェオレのストローに口を付け、ずずず、と音を立てるとまたダストボックスに向かった。歩いて戻ってくると、彼女は僕の顔を見て訊いた。
 「君はお腹空かないの?」
 「少しだけね。でもお金がないんだよ」
 隣に立った彼女は学者のように顎を触れる。何かを考えていることは容易に想像出来た。そして数回指で顎を叩くと、思いついたように口を開いた。
 「じゃあさ、私が買ってあげるよ」
 目を輝かせ、彼女は僕を見つめる。
 「そうは言っても、そんなお金があるのかい?君と僕は同い年のはずだから、持っている額も大したことないと思うけど」
 そう言う僕を制するように、彼女は顔の前で人差し指を三回振った。
 「案外そうでもないのよ。小さい時から貯金をしていたから、案外あるのよ」
 「でも、大切な貯金なんでしょ。そんなものを僕に使っていいのかい?」
 「貯金は使いたい時に、使いたいように使うものよ。今私が使いたいから問題はないわ」
 彼女は肩にかけたポーチから財布を取り出し、見せびらかすように左右に振った。揺れる二つ折りの皮財布は、僕のポケットに入る安物の財布とは比べ物にならないくらい美しい光沢を放っていた。
 「美味しいものを食べる前に、君の服装を何とかしないとね。そんな寝巻じゃあ美味しいものも美味しくなくなっちゃうわ」
 「酷い言い分だね」
 「冗談よ。ほら、早く行きましょう。案外夜は短いんだから」
 彼女は僕の寝巻を掴み引っ張った。姿勢を崩した僕はそのまま後ろに転んでしまう。そんな僕を見て彼女は笑った。

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