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夏の夜の終わりに ⑰

 翌朝、僕は十時過ぎに目を覚ました。四時ごろまでは記憶があるので大体六時間は寝たのかもしれない。僕は彼女よりも先に目を覚まして、ベッドの上で背伸びをした後彼女の肩を数回揺すった。優しい吐息を吐きながら眠っていた彼女は、一度怪訝そうに眉を下げた後、ゆっくりと目を開いた。
 「おはよう。もう十時だよ」
 「おはよう。もうそんな時間なのね」
 寝ぼけ眼の彼女をベッドの上に残して、僕はコーヒーを淹れた。彼女同様に僕もポットのお湯が沸きあがるまで、その場に立ち尽くして待っていた。何となくそうしていたくなったのだ。このポットには不思議な魅力があるのかもしれない。
 出来上がったコーヒーを二杯テーブルに置くと、「ありがとう」と彼女はコーヒーに手を付けた。綺麗な黒髪はぼさぼさと広がっていて、それは何処か生活感のあるぼさつきだった。
 「これからどうする?」
 もう少しこのままいようか、なんて言葉を待っていた僕は彼女の返答に拍子抜けしてしまう。彼女は「もう帰るわ」とすぐに言葉を返した。
 「分かった」
 「寂しいの?」
 「少しだけね」
 「ごめんね」と彼女は僕が座るレザーソファに腰を下ろし、僕を優しく抱きしめた。
 「お母さんのところに行かないといけないのよ。あんまり調子が良くないみたいでね。少しでも付き添いをしていたいの」
 「ずっと付き添ってあげるといいよ」
 「そうするわ」
 彼女は立ち上がり、洗面台に向かった。そして顔を洗い、化粧水を付けてその上に乳液を塗った。ドライヤーを当てた髪にヘアブラシを通し、髪を真っすぐと下に降ろす。普段通りの、綺麗な黒髪が戻ってきた。その様子から彼女が早くここを出ようとしていることは、簡単に読み取ることが出来た。僕もバスローブを脱ぎ昨日買ったジャージに袖を通す。シャワー室で髪を流し、ドライヤーを当てて寝癖を直した。
 「もう終わったの?」
 「うん。男の朝の準備は簡単なんだ」
 「羨ましいわ」
 彼女はバスローブを脱いでTシャツに袖を通している。黒いキャミソールが見え隠れする。僕はもう彼女のキャミシール姿に何も感じなくなっていた。
 「歯磨きする?」と彼女は歯ブラシを僕に渡す。「ありがとう」と受け取り、洗面台の前に二人並んで歯を磨いた。
 鏡に映る僕らは共に寝ぼけた表情をしていた。とても生活感のある表情だった。
 歯を磨き終えると精算機で精算をした。一晩で一万六千円だった。僕にとっては大金だ。しかし彼女は革財布から簡単に二万円を出し、ごく当たり前に精算をした。そして当たり前に四千円が返って来る。彼女はそれを革財布にしまった。とても自然な光景だった。
 エレベーターを下り、外に出た。刺すような直射日光が僕らを襲った。
 「暑いね」と彼女は手で顔を仰ぎながら、太陽を睨んでいた。対照的に僕は俯き、足元を歩く蟻を眺めていた。蟻は光沢のある黒い背中で太陽の光を反射させ、僕の視界を蝕んだ。久しぶりに眩しいという感覚がした。
 駅前の通りに出ると彼女は足を止めた。そして「ここで別れましょう」と言った。
 「どうして?帰る方向は同じじゃないのかい?」
 「同じだけど、一緒にいるべきではない気がするの」
 「それは変な噂が立ってしまうから?」
 「それもあるけど、何だか昼間にいるべきじゃない気がするの。君とは月明かりの下で会うのが一番いい気がする」
 「確かに、そうかもしれないね」
 僕らが話をしている間、車が三台大通りを通った。僕は彼女の話を聞きながら、車に横目を向けていた。どれも単純な軽自動車ではなく、名前も知らない高級外車だった。何となく、特別な気持ちがした。それは日の下で彼女といる特別感がそう思い込ませているのかもしれない。
 「最後に、一つだけ聞いてもいい?」
 「なに?」と彼女は首を傾げる。
 「前に話してくれた、虐められているクラスメイトを助けたっていう話は作り話だったの?」
 僕が訊くと、彼女は微笑んだ。
 「あれも、本当よ。でも、あれはきっかけに過ぎない。言わば、私の虐めに対する導線ね。着火剤となったのは、私が売女であるっている事実のほうよ。あの時私が虐めを庇った子も、今では私を売女呼ばわり。酷い話でしょう?」
 彼女は歪な笑みを浮かべて言った。
 「そっか、それは酷い話だね」
 それから僕らは互いに手を振り、同じ道を歩いた。僕が前を、彼女が後ろを。それはとても違和感のある光景だったと思う。けれど、僕らにはそれが丁度よかった。僕らにとっては、日の下で一緒にいるこの現実こそが違和感の塊なのだ。僕らは月明かりの下でのみ共存出来る、そんな存在なのだから。
 僕はひたすらに足を進める。何かから逃げるように。君から逃げるように。本音を言うと早く君に追いついてもらいたい。肩を掴んで声を掛けてもらいたい。振り返った先で笑顔を見せてもらいたい。でも、それは出来ない。何故ならここは月明かりの下ではないのだから。月明かりの下でこそ、僕らは本当の姿で向き合うことが出来るのだ。何のベールも纏わない、僕と彼女で。
 しばらく前に突き進み、僕は後ろを振り返った。後ろに、彼女はいなかった。随分前に道を曲がったのかもしれないし、それよりも前に曲がったのかもしれなかった。しかし、今となってはどうでもいいことだった。そこに彼女はいないのだから。僕はまた前を向き、足を進める。レールを敷かれたように正確に、家までの道のりを歩く。そして家に着くとすぐにシャワーを浴びた。そして自室に上がり、ベッドに飛び込んだ。昨夜はそれなりの睡眠時間を有したはずなのに、僕はまた深い眠りについてしまう。これでまた昼夜逆転生活に戻ってしまう。薄れる意識の中で、僕はそんなことを思った。
 そして僕は、深い眠りに落ちる。それは夜を求めるような、希望に溢れた眠りだった。
 

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