夏の夜の終わりに ㉑
それからしばらくして僕は補導された。どうやら急に飛び出した僕を心配してお母さんが警察に連絡したらしい。
僕は大体一時間ほど、警察から家を飛び出した経過について取り調べを受けた。取り調べ室は刑事ドラマと同様にこじんまりとした部屋だった。その中央にテーブルが置かれ、それを挟む形で僕は警察と対面した。
そこで僕は市川彩と知り合いだったこと。彼女の死を受け入れられなかったことを手短に話した。警察は僕の境遇に同情してくれた。そして淡々と、彼女の自殺について話してくれた。
どうやら、彼女は僕に宣言した通り二学期初めに学校へ行ったらしい。そこで彼女は心無い言葉を浴びせられ、途中で早退したらしかった。心無い言葉など普段から浴びせられていただろう。そう思った僕は警察に何を言われたのか尋ねた。すると警察は重い口を開くように言った。「親の死を馬鹿にされたそうだ」と。それを聞いた瞬間、僕の中に深い悲しみ浮かんだ。どうしてあの日、僕は彼女の母の死を一緒に悲しんであげられなかったのだろう。どうして彼女の頑張りを労ってあげられなかったのだろう。僕の心の中には鉛玉のように重たい後悔がずしりと沈んだ。結局、僕は僕のことしか考えていなかった。彼女が来たという事実を喜ぶことで精一杯だった。本当に不甲斐ない。彼女にとって母が亡くなったという事実は何事にも代えがたい絶望だったはずなのに。僕は自然とその絶望から目を背けてしまっていたのだ。そう思うと、僕はまた大粒の涙を流していた。警察はそんな僕の様子をじっと見ていた。僕は涙の海の中で、彼女との会話を思い出していた。
『普通に大学にも行って、普通に就職して、普通の家庭を作るの。そして子どもを普通に産んで、元気になったお母さんに抱きしめてもらうの。とっても普通な夢でしょう?』
そう話す彼女の姿が浮かんで消えやしない。彼女にとって母は絶望的な現実の中にある唯一の生きる理由だったのだ。そんな存在がいなくなった彼女に残ったものは、純粋な絶望だけだったのだろう。今になって彼女の気持ちを考えると、美しい三日月に焦がれる理由も理解出来た。
警察は泣き喚く僕の肩に手を置いて「彼女の分まで必死に生きなさい」と言った。
それから僕に待っていたのは取り調べよりも長いお母さんの尋問だった。いつ彼女に出会ったのか。どうして何も言わなかったのか。彼女と何をしていたのか。そして何十、何百、何千とも発せられた「大丈夫?」の言葉。はっきり言って大丈夫なはずがなかった。僕の大切な人が亡くなったのだ。「大丈夫」なんて簡単な言葉で片付けられるわけがなかった。けれど僕はいとも簡単に「大丈夫」と言ってしまう。「大丈夫」と言わないと永遠と何かを問い詰められそうだったからだ。それは無理やり胃液を吐かされるような苦しみだった。だから、簡単に「大丈夫」と言ってしまう。「大丈夫」と言わされてしまう。何処にでもある優しい言葉は、気付けば僕を突き刺す棘に変わっていた。何度も、何度も棘に責められ、傷を負ってしまう。気づけば僕は優しい言葉に心を毒され部屋に閉じこもってしまった。
昼夜問わず部屋のカーテンを閉め、電気も付けずにベッドの上で体育座りをしていた。膝を抱きしめるその姿勢は、まるで僕自身を抱きしめているようにも思えた。傷ついた僕を抱きしめる弱った僕。当然僕の傷が癒えるわけがなかった。何故なら僕を抱きしめるのは君でないといけなかったからだ。君の柔らかい体を抱き、君の心臓の鼓動を感じる。そして僕の鼓動を感じる。そうしてこそやっと、僕は「生」を実感できたのだ。生きていたいと、思えたのだ。
暗い部屋の中で、僕は何度も啜り泣いていた。何日も泣き続けると、次第に涙は出なくなった。泣き止んだのではない。単純に脱水症状を引き起こしたのだ。涙を流し続けた僕の体内には放出するための水分はない。水分を取ろうとも思わない。だんだんと力が抜けていく。僕は自然とベッドに倒れていた。そして次第に意識が薄れていった。暗い部屋の中で、僕の目元だけがちかちかと光っていた。単純に眩暈がしていただけだった。その不健康な光は月明かりの夜を想像させた。月が輝いていて、美しい星空が頭上に広がっている、そんな夜。僕の想像する完璧な夜が眼前に広がると、僕は薄っすらと微笑んだ。何故なら、その完璧な夜は完璧たる所以があったのだ。その夜には、彼女がいた。もうすでに名前を知っている彼女がいた。彼女はフェンスに両肘を置き、僕が近づくと振り向いた。そして優しく微笑んだ。僕は彼女を見るや否や、大きな声で名前を叫ぶ。何度も、何度も「彩」と叫ぶ。そんな僕を見て彼女はくすっと笑い「恥ずかしいから名前はやめて」と言う。如何にも彼女らしい口ぶりだった。僕は足を速め、彼女に近づく。そして手を伸ばし、彼女を抱きしめた。彼女の柔らかい感触が僕の体を包む。彼女の鼓動が僕の胸に響く。そして僕の鼓動は早くなる。けれど、彼女は僕を抱きしめてくれなかった。だらんと両腕を垂らし、僕の首元でふふ、と吐息を吐いた。そして、「約束を守れなくてごめんね」と言った。とても悲し気な声だった。彼女はそっと体を離し、両手で優しく僕の頬に触れた。そして、「まだ来ちゃ駄目だよ」と言った。彼女は優しい笑顔を見せていた。その瞬間、柔らかい風が吹いた。温かい、夏の夜風だった。その風に吹かれて彼女はふわっと姿を消した。眼前に見える月も、美しい星空も全て風に飲まれてしまう。僕に残ったのは真っ暗な闇だけだった。
闇の中で、僕はまた体育座りをしていた。しばらく体育座りをしていると、何処から声が聞こえた。その声は次第に大きくなる。僕は立ち上がり、声に向かって走った。必死に、必死に走った。声が大きくなるにつれて、世界は明るさを取り戻していく。そしてそれが僕の名前を呼んでいると気付いた時、閃光玉が弾けたように眼前が真っ白になった。
「陽一!」
気付くと、お母さんが僕の肩を揺さぶっていた。天井は見たことも無いほどに真っ白で、周囲からは消毒液の匂いがした。
「ここは?」
お母さんに顔を向けると、瞳から大粒の涙を溢していた。震える声で「病院よ」と答える。
「病院?」全くもって身に覚えがない。ゆっくりと体を起こすと、僕は薄緑の病衣を着せられていた。腕には点滴の針が刺さり、輸液チューブを伝った先には大きな輸液バックが吊るさっている。
「陽一は、脱水症状で倒れたのよ。お母さんが気づいた時には意識がなくて、救急車で病院に着いた時には一刻を争う状況だったの。こんなになるまで気づけなくてごめんね。でも良かった。意識が戻ってくれて。本当に、良かった」
お母さんは両手で顔を覆ってまた泣いた。そして僕は全てを理解した。僕はまた、君に助けられたのだと。ぼんやりと、彼女の優しい笑顔が浮かぶ。しかしはっきりと彼女の顔は見えない。僕が泣いているからだ。点滴で入れた水分が全て抜けてしまうんじゃないかと思うほど、僕は泣いた。そしてまた涙が枯れてしまうと、僕は決意した。とても強い、決意だった。
僕はしっかり、生きていこうと思った。
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