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夏の夜の終わりに ⑳

 リビングに降りるとお母さんが夕食を作っていた。ボウルに蒸したジャガイモを入れて、マヨネーズと混ぜている。ポテトサラダを作っているようだ。「今起きて来たのね」「うん」と簡単な会話を交わし、僕はリビングのソファに腰を掛けた。テレビの上にある掛け時計は十八時を示していた。
 「暑くて寝苦しかったでしょ」「うん」また簡単な会話をする。夏休み前の一件以降、お母さんは学校に行くことを強要しなくなった。その代わり、お母さんはよく朗らかな表情をするようになった。優しく頬を上げ、優しく声を掛ける。観音像のようなお母さんを表現するには「違和感」という言葉が丁度よかった。
 僕はソファの背もたれに寄り掛かりながら、テレビの電源を入れる。
 明日の天気、人気料理店の特集、よく分からない政治の話、国連がどうのこうの。はっきりって僕に関係のあるニュースは一つもなかった。しかし僕はニュースを見ていた。それ以外にやることがなかったからだ。
 大体三十分ほどニュースを見ていた時、それは唐突にテレビに映った。そのニュースが報道された時、僕は目を丸め、食い入るようにテレビ画面を眺めた。おかげで目が驚くほどに乾燥してしまう。けれどそんなことはどうでも良かった。
 『本日午前、○○県△△市で市川彩さん(十七歳)の遺体が発見されました。遺体発見時、市川さんは天井のフックに巻いたタオルに首を掛けて亡くなっており、足元に遺書のようなものが残されていたことから警察は自殺の可能性が高いと見立てています。八月の半ばには彼女のお母様が病気で亡くなっており、彼女自身も精神的に不安定になっていたことが自殺の原因ではないかとのことです。』
 淡々とニュースキャスターが概要を話した後、彼女の写真が公開された。長い黒髪と端正な顔立ち。それはまさしく彼女だった。突発的に聞いたその事実を、僕は受け止めきれなかった。そんな僕などお構いなしに、ニュースキャスターは画面に公開された彼女の遺書を読んだ。
 『ごめんね。先に三日月に座って待っています』
 それはまさしく、彼女だった。僕の知っている、名前も知らない彼女だった。
 そう理解した瞬間、僕は心をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。そして、僕は大きな声をあげて泣いた。両手で顔を覆い、指の隙間から沢山の涙を溢した。そんな僕の様子に気付いたお母さんは「どうしたの?」と僕に駆け寄る。そして理由も知らぬまま、僕の背中を撫でた。僕はそんな優しい手のひらを思い切り弾く。そしてそのまま外に飛び出してしまう。もちろん寝巻のままだし、靴も履いていなかった。僕は何かに引き付けられるように、足だけを前に進めていた。向かう場所は決まっている。月明かりの空き地だった。
 
 
 走る、走る、走る。素足でアスファルトを蹴りながら、走る。
 すれ違う通行人は決まって不可思議な僕に異常者を見るような視線を向けた。けれどそんなことはどうでも良かった。
 いつも通りの明るい十字路に差し掛かると、僕は人の波をかき分けながら足を進めた。何度も足を踏まれて、両足には酷い鈍痛が走っていた。けれどそんなことはどうでもいい。僕が無意味にぶつかったせいで、声を荒げる人もいた。けれどそんなことはどうでもいい。彼女以外の全ての事象はどうでもいいことだった。
 明るい街を抜け、薄暗い田んぼ道に出る。蝉の声は消え、代わりに蟋蟀が美しいハーモニーを奏でていた。少し前までは瑞々しい緑色をしていた稲穂も、今は干からびた薄茶になっている。風に吹かれると、かさかさと渇いた音を鳴らした。小川のせせらぎとその上に掛かる木橋は何一つ変わっていなかった。
 山道に入ると、僕はさらに足を速める。傾斜のせいで息切れは激しくなったが、そんなことはどうでも良かった。本当にどうでも良かった。
 山の空き地に着いた時、僕の足は血まみれになっていた。よく分からない小枝が刺さり、覚えもない打撲痕があった。そんな足を引きずりながら、僕はフェンス沿いに向かう。もしかしたら全てが僕の勘違いで、君が「どうしたの?」なんて振り返る想像をしていた。しかしそんなことは無かった。そこにあるのは寂し気な白いフェンスだけだった。
 僕はフェンスに両肘を乗せ、夜空を見上げた。とても綺麗な三日月が浮かんでいた。
 そんな三日月を、僕はじっと見つめていた。もちろん、君は三日月に腰を掛けていなかった。そして、ここに君は来なかった。僕は何を考えるわけでもなく、ひたすらに三日月を見ていた。どれだけの時間が過ぎたのかも分からなかった。長い時間の経過の中で、僕はただ三日月を見つめていた。
 次第に空は白み、三日月は薄くなっていった。僕を纏う空気は透明感を増し、少しだけ肌寒くなる。一度身震いをすると、僕の中で得体の知れない不安が生まれた。早く彼女を見つけなければ。本能的にそう思ったのだ。早く彼女を見つけないと、もう二度と彼女とは会えない気がした。
 その瞬間、僕はまた走り出した。痛みの引いていた足はまた痛み出し、動悸に合わせて額から多量の冷や汗が出た。僕はそんな状態で山の中へ飛び込んだ。山道のない、本物の山の中へ。
 沢山の広葉樹林の間を抜け、無数の朽ち木を飛び越えた。足にはまた小枝が刺さった。森を駆ける中で、得体の知れない虫にも幾度となく遭遇した。もしかしたら猛毒を持っているのかもしれない。その度にそんな不安を膨らませた。けれど不思議と怖くはなかった。彼女を失うという事実に比べれば、怖いものなどなかった。
 僕は森の中で、ひたすらに彼女の名前を叫んでいた。「彩、彩、彩」初めて読んだとは思えないほど呼び慣れた声で、僕は彼女の名前を呼んだ。もしかしたら「どうして私の名前を知っているの?」と彼女が木の陰からひっそりと出て来るかもしれない。そんな想像ばかりを膨らませた。けれど一向にそんな気配はなかった。
 どんどんと気温は上がり、空は青く変色していった。もうしばらくしたら僕が眠る時間のなるのだろう。しかし眠気はなかった。眠気が姿を現す隙間の無いほどに、僕の脳裏は彼女で膨れ上がっていた。
 木々の影を覗きながら、彼女の顔を想像した。生い茂る草木の中を覗いて、彼女の声を想像した。崖の下を覗き込んで、彼女の髪を想像した。そして空を見上げて、彼女の柔らかい体を想像した。彼女の全てを想像しながら、僕は山中を捜し尽くした。しかし、彼女の姿は見当たらなかった。
 諦めた僕はどろどろに汚れた格好であの空き地に戻った。足は痛みでしびれているし、口腔内は唾液も出ないほどに渇いていた。彼女の名前を叫びつくした声帯は、もうまともに機能してくれそうになかった。
 僕は広葉樹の幹に腰を掛け、空を見上げた。夜はもう更けてしまう。あれだけ美しかった三日月は、もう輝きを失ってしまっている。僕はそんな三日月を見つめていた。彼女を思いながら、見つめていた。
 だんだん、夜が更けていく。次第に三日月も消えてしまう。
 もうほとんど見えなくなった三日月に目を向けていると、僕の瞳に見覚えのある姿が映った。それは、彼女の姿だった。彼女は薄くなった三日月に腰を掛け、僕に手を振っている。そして、ゆっくりと口を動かした。「ごめんね」と口を動かした。僕には口に動きだけでなく、口腔内の歯の並びまで見えてしまう。それほどにはっきりと彼女の姿が見えたのだ。
 僕は無意識に立ち上がり、フェンスに駆けた。そしてフェンスに両肘を置き、彼女を見つめる。そんな僕を見た彼女は、今まで見たことがないくらいに柔らかい笑顔を見せた。その笑顔には、何のしがらみもなかった。その瞬間、僕は理解した。彼女はもういないのだ、と。
 僕は薄れる三日月に向かって叫ぶ。何度も、何度も叫ぶ。彼女の名前を叫ぶ。かすれる声で「彩」と叫ぶ。そして僕は大粒の涙を流す。けれど満面の笑みを浮かべていた。
 青い空が、眼前に広がった。同時に、三日月は消えた。明るい太陽が僕を包んでいる。明るい世界の中に、彼女の姿はなかった。
 「お疲れ様」と僕は呟く。もう涙は出なかった。
 
そして、僕の夏が終わりを告げた。

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