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エピローグ 夏の夜の終わりに

 その後の日々はとても単純なものだった。
 退院すると、僕はスムーズに学校へ行くことが出来た。それは周りだけでなく、僕自身も驚くほどスムーズに学校へ行った。それからは一度も休むこともなく、周りと同じように高校を卒業した。もちろん、虐めが無くなったわけではなかった。最初のうちは前と同じように学校へ行くと殴られたし、嫌味を言われた。でも僕は何も感じなかった。君の感じた痛みや苦しみに比べると大したことではないように思えた。僕が無反応を貫き通していると、虐めは次第に無くなった。きっと面白みが無くなったのだろう。
 高校を卒業すると僕は当たり前に大学に進学した。特に偏差値の高い大学ではなかったが、就職に不自由するような大学ではなかった。僕は大学で教育学について学んだ。教員になろうと思ったからだ。何故なりたいと思ったかと聞かれても簡単に答えられない。何というか、簡単に答えてはいけない気がするからだ。だから就活の時には適当な嘘を付いた。誰でも言えるような嘘だった。とある高校はそんな嘘を見破ることが出来ず、僕を入職させてくれた。それだけでまともな高校でないことはよく分かるだろう。でも、僕はそんな高校が良かった。何というか、懐かしい気がするから。
 教員になってからの日々はとても目まぐるしく過ぎていった。大体八時には職員室に入り、日中は授業や生徒指導に勤しむ。夕方には追試を受けるどうしようもない生徒に付き添い、陽が落ちると明日の授業の準備をする。家に帰るころにはため息ばかり出て、本当にこれでいいのかと思ってしまう。気づけば、そんな日々をもう五年も送っていた。

 教えるばかりでいろんなものを失っていく日々。時間、趣味、友人。無くなったものは数えきれない。けれどそんな日々の中で、唯一覚えているものがある。忘れられないものがある。それはあの月明かりの下で君と過ごした日々だ。とても優しく、儚い日々。そんな日々に触れるため、僕は毎年夏の終わりに月を見る。山道を登り、分かれ道を右に行く。そして雑木林を越え、あの空間に足を踏み入れる。十年経った今もなお、あの広葉樹は美しく空き地の中心にそびえ立っている。フェンスは少しだけ錆びてきている。その錆びは僕に時間の経過を感じさせる。僕は広葉樹の幹に腰を掛け、月を見る。美しい三日月だった。
 「なかなか上手く行かないね」僕は月夜に向かって話しかける。
 「本当はさ、君や僕みたいな生徒に手を差し伸べるために教師になったのに、ただ時間と書類作成に追われる日々を送っているよ」僕は話を続ける。
 「時々、思うんだ。僕なんかより君の方が立派に教師をやれるんじゃないかってね。何ていうか、君はとても大人びていたし、筋の通った意見を持っていた。君を思い出す度に少し落ち込むんだ。どうすればいいんだよ」
 「そんなことない。君みたいに少し変わった人の方が教師に向いていると思うわ。だって、違った視点からものを言えるんだもの」と君が言った気がした。
 「そうかな。まあでも、君が言うんならそうかもしれないね」
 「そうよ。それに君は精一杯生きているじゃない。教師が本当に教えるべきことは勉強なんかじゃなくって、前を向いて生きて行く方法なのよ。だから君はとてもいい教師なの。それを教える術を持っているんだからね」
 「君のおかげでね」
 僕はゆっくりと顔をあげ、金色に輝く三日月に目を向ける。そして僕は微笑む。三日月の欠けた部分には君が座っている。優しい表情を浮かべて月明かりの世界を眺めている。しばらく辺りを見渡すと、僕に目を向け柔らかい笑みを見せる。僕も君に笑顔を向ける。
 「ありがとう」君に向けて僕は言う。
 君はゆっくり首を振り、「こちらこそ」と言う。
 優しい風が吹く。暖かな、夏の夜風だった。
 風に吹かれて、君の綺麗な黒髪が揺れる。そして、君は消えてしまう。美しい三日月だけが、僕の瞳に映っている。
 僕はゆっくりと微笑んだ。
 
 
 また、夏が終わりを告げた。

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