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女の変化について


私が自分を変化させたいと思ったのには、まず一番に女が好きという点があった。恋愛感情ではない、女という存在が好きだ。そもそも人間というものが好きだが、私の中で性別の区別というものは強い。基本的には男が嫌いで女が好きである。

 女の好きなところは「無茶苦茶」であるというところにある。この時代において表現に気をつける必要があるが、私も女であることを免罪符とし、誤解を恐れずいうのであれば、「我が儘」で「可愛く」「強く」「小さく」「計算高く」「身体が魅力的で」「矛盾をはらんでいる」ところが好きだ。

 中高生の頃、普通の共学の学校に通っていた私は女の世界の渦に巻き込まれていた。私は子供にしては需要できる範囲が広かった。そのおかげでどんな種類の女の子とも仲良くすることができた。女の子はなぜか女の子を嫌っていた。真似をするとか、ルールを守らないとか、3人じゃ遊びにくいとか。私は「みんな自分の気持ちに正直に生きたらいい」という主義であったので、真似をする子も、ルールを守れない子も、奇数で遊べない子もどれも可愛く見えた。そして全く面倒くさくなかった。ここと、ここが仲悪いのでみんなで遊べないので、休み時間1回目は一人目の子が近づいてきて話したら、2回目は二人目の子が近づいてきて話す、など休み時間ごとに人が立ち替わりしていた。その煩雑さが面白く、興味深かった。

 ヒエラルキーも顕著にあった。私はヒエラルキーの階層では下だったが、ヒエラルキートップの子と下校し、恋の相談をされることがあった。その一方で、大人しい子からは「お友達になってください。」というメールアドレスの書かれたお手紙をもらった時もあった。どの階層にもそれぞれの悩みがあり、派手で目立っているから何だって順風満帆ではないし、大人しいからといって行動力がないというわけでもないと知った。

 女子同士だけでも絡みついてくる人間関係の中で、大学に入るとそこに男女の関係が色濃くまざり、さらに「女」というもののおかしさが上がってくる。そこに巻き込まれるのがたまらなく面白い。全学部が1つのキャンパスに集まるマンモス大学だったので、単純に人数も多いから多種多様な女を見ることができ、ますます女というもの魅力にはまっていく。大学に通っていたのは20年も前になるので、今の大学生の女子とは違うと思う。あの頃の大学生は赤文字系雑誌(cancan,JJ)から青文字系雑誌(CUTIE,Zipper)、森ガールがいた。私自身は中高生の時には見られなかったファッションによる、女の表現に対し、過剰に追求しだし、網タイツやシミーズで登校していた。そして、ドラァグクィーンに映画で出会い、クラブに通い出し、外観における過剰な女性表現にどっぷりはまった。休みの日はコルセット、パニエの入ったスカート、網タイツの格好であるのに、普通の大学生だと思っていたので、チャリで好き勝手行動していた。友人にほぼ下着になってもらい、写真撮影も行った。このあたりになると、ファッションとしての外観より肉体の外観に興味が移行していき、グラビア・セクシービデオ・AVを見漁っていた。

 過剰性が好きになりすぎると、中途半端なものに対しての疑念が始まる。自身の若さも加わっているので、中途半端、何を表現しているのか一端隠しているものに対し、さらに不正義を感じるようになった。そして赤文字系雑誌女の「男に気に入られようとして、わざとあんな服にしている」、青文字系雑誌女の「あんな奇抜にしながらも、実は男に気に入られようとしている」、森ガールの「私、何もしりませんみたいな顔して、脱いだら全部一緒」という矛盾に耐えきれなくなり、過剰な女以外を遠巻きに、下げた目線で見ることとなった。女は「卑猥でえげつなく、感情的である」くせにその良さを十二分に使用しない、そのあざとさを同じ女として許していなかった。かわいさあまって憎さ100倍なのである。私の感情こそ、矛盾の塊であった。そしてまたそれも「嗚呼、私は女をしている!」と思っていた。

 20才、成人式を迎え、家族が夜にお祝いといって、キャバクラにつれて行ってくれた。可愛い女の子が両脇についてくれて、フルーツの盛り合わせを食べた。その後は、おかまバーに連れて行ってもらって、股間か肛門かどちらからか何かを出す芸を見に行った。店というのは、「女」を売っている気がしてとても好きだ。私は自分に自信が無かったので、女を売れる商売を選べなかった。これは人生においてとても後悔している点だ。せいぜい和風小料理店のカウンターでお酒を出して、お客様をお見送りするぐらいのバイトをした。あくまで酒と料理が商品だ。夜のお店の人は女で勝負しているのだから格好いい。あまりにも勇ましく孤高である。

 このように18才から22才の間に許せる女、許せない女がしっかりと区別がされた。しかし、区別はするが拒絶はしない。その後は社会人になっていくのですべての人間はお客様に変わった。特に入った会社の客層が女の人オンリーだったので、女の人が喜ぶものをずっと考えていた。そして会社の男の人と本当によくぶつかるので、ますます男が嫌いになり、女への愛を募らせるのである。恋愛となると、見た目は男であったが心根が女である人しか好きにならなかった。LGBTQというわけではない。女性性を強く持つ男性ということである。「共感性の強い男」「おしゃべりな男」「好きなものがたくさんある男」である。



 そして私はこんなにこじらせておきながらも結婚をし、子供を産んだ。28才。生んでから私は意識的に「過剰な女」というものを捨ててみることにした。結婚して仕事をやめ、大阪から高知に来た私は、この高知の田舎の閉塞感も楽しんでいた。「田舎街のよくいるお母さんやってみたいなー」この種類の女に自分がなれるかもしれないと思うとわくわくした。第一子出産のとき金髪にしたのだが、高知に戻りまず真っ黒のショートボブにし、履いたことのない地味なユニクロパンツを履いた。27才までは網タイツで毎日すごしていた私が、黒いパンツを履いた。ちょっと衝撃だった。これ、コスプレだ。田舎街のよくいるお母さんコスプレ。凝り固まった私のクローゼットには「お母さん」という言葉の真逆の服ばかりが並んでいた。違う種類の女が自分の身体に入り込んでくる気がした。むしろ、前に嫌悪していた、女を利用しない女になろうといている。その罪悪感が気持ちよかったし興奮した。

 普通は逆かもしれない。真面目な格好した子がセクシーな服に袖を通すあの瞬間と本当に同じ衝撃がからだを走った。Earth music&ecologyのトップスを着て、ユニクロのズボンをはいて黒髪ショートボブの私は鏡の中で今から嘘をつこうとしていて、鳥肌が立ってきた。めちゃくちゃ気持ちよかった。コスプレというものはすごい。そこから私は心根まで「お母さん」に浸食されていった。私はアンパンマンが許せるようになった。ぬいぐるみショーを見て笑えるようになった。ママ友と花見に行くことができた。クラブに行く気もなかった。飾っていたグラビアも押し入れの奥にしまった。保険を考えたり、公園を歩いたり、年賀状を出したり、大人みたいなことをしだした。良き母、良き嫁というものは何か犠牲にしてます感が必要であるからして、ゴムで髪を一本で結んでみたりした。女の種類を外見で変えただけなのに、中身も変わる。できることが増えるのである。できなくなったのではなく、しなくなっただけで、それも残り、さらに需要できる範囲が広がったのだった。なんて女はすごいんだ。柔軟に女の種類を渡ったことにより、種の貴重性をさらに感じた。

 女だからといって女を乗りこなせるわけではない。私は順調に「田舎街のお母さん」をしていたつもりだったが、本当はそうではなかった。子供が1才をむかえて私は急にボブの中身を全剃りした。限界だったんだろう。髪をおろせば、お母さんに戻れるようにはしたが、中身は全そりで、私はその頭皮を見て「過剰な女」を感じていた。井上晴美やアイコニックに感じたエロさ。女の象徴である髪を捨てる背徳さこそ、女しか持ち得ない雰囲気であり、そこに異常に女を求めた私はたまに髪を結んでその肌を見て落ち着きを取り戻したりした。夫にその肌を見せつけながら、「ここめちゃくちゃセクシーだよね。」というと、「え?わからん」と一笑されて本当に吃驚した。いや、めちゃくちゃ女ですやん!!艶しかないですやん!!と思って、少し鏡を見つめぼーっとたっていたぐらいだ。

 そのあたりから「女」というものがよく分からなくなった。私が「女」より「お母さん」を意識し、行動したことにより、女の情報が入らなくなっていた。1年のブランク。焦りだした。気づいたら好きなものから遠ざかっていたことに気づいた。横道行ってみて面白そうかと思ったら元の道が分からなくなっていた。過剰な女を捜し剃り上げた肌は、女を十二分に使用したそれでは無いことを知り、パニクった。女よ、何処だ。気づいたら田舎だった。女の種類が少なくなっていた。大人だし、子持ちだし、田舎だし、どこに人がいる?どこに女がいる?そして私は2人目の子を妊娠する。女は私のおなかの中に居た。

ここから、私は急激に変化をする。それはまた次回とする。


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