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ブレア・ウィッチ・プロジェクトの撮影はいつ終わったのか?

 私は先日古本屋で「ブレア・ウィッチ2 暗黒の書」という本を見かけて心の底から驚愕した(刊行は2001年)。タイトルからして「ブレア・ウィッチ・プロジェクト(以下BWPと表記する)」の続編映画の副読書だろうと想像は付いたのだが、あんなアイデア一発勝負の映画に次作があるなんて考えた事も無かったのだ。正直に言って、あんな作品は20年に一つくらいあればそれでいいだろう。わざわざコンスタントに毎年毎年気色悪いビデオが発見され(た体の芝居を皆で装い)、更にわざわざ大画面で放映しないといけない程の話でも無い筈だ。嘆かわしい程の多くの人達が、ブレアの魔女の呪いがかかった森の中なり外なりで自分自身の人生に遭難している。少なくとも俺はそうです。そういう状態にいる自分が接したいフィクションって、「誰かが辛すぎる現実をほぼ発狂しながら生きている」という状況を「リアルな見世物」として提示するもんじゃ無く、そういう状況を描いた物語を通して、他人に同情し、協力したいという気持ちを回復させてくれるものなのだ。そういう気持ちでも持たないとこの世の全てが虚しくなって鬱になるから。なのでBWPは全く優れた作品だとは思えなかった。こりゃ単に謎の状況で兵糧攻めにされる男女を特等席から観させられてるだけだし、その体験から得られる論理的な帰結は「貴方が謎の状況下で兵糧攻めにあっても、周りの人達はただ特等席から貴方を見物してるだけですよ」って事でしか無いから。誰がそんなもんに感動したり勇気付けられたりする?!
 もちろんこの先死ぬまで特等席に座れる事を保証されてる人達だけだろう。私はそういう人間では無い。残念だが。
 
 などと考えながらその本を購入し、そして「ブレア・ウィッチ2(以下BW2)」も鑑賞し、そして面白いと思った。以下に綴るのはBW2の感想になる。副読本「ブレア・ウィッチ2 暗黒の書」についての感想も書こうとしたが、諦めた。その理由は後述する。また、映画の内容についても触れるため、出来れば実際にBW2を見てからこの後の文章を読んで欲しい。
 
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 私がBW2を鑑賞してまず最初に驚いたのが、前作がヒットした最大の要因「主人公達自身によるビデオカメラでの撮影」という方法を採用していない点だった。映画に無知なので正確な名称が分からないのだが、普通の映画の撮り方をしているのだ。というより、坊主頭の青年が閉鎖病棟で暴れ悶える映像がビデオクリップ的な早回しで流れた後に、バーキッツヴィルの当の森の空撮と共に、マリリン・マンソンの「ディスポーザブル・ティーンズ」が元気良く響き渡るオープニングに観客の多くがひっくり返るに違いない。バカ過ぎる。許容範囲を優に越えた、これがアメリカの底力だと言わんばかりの貪欲なまでのバカの乱れ撃ち。大リーガーが空から故郷へと凱旋してる映像かと錯覚する豪快そのものの演出。いくらなんでも"森で遭難してしまった映像学校所属の若者達が残したビデオテープを素にした悲痛なドキュメンタリー"、という体裁で創られた作品、その続編の主題歌に意気揚々と「使い捨ての10代」という曲を選ぶだろうか、普通?個人的にはBGMにシンバルが鳴る曲を流すだけでも前作の余韻は台無しになると思うし、監督のジョー・バーリンジャーは序盤から屈託なくそれをやってのける。彼ははっきりと前作の作為的なリアリズムに対してアンチの姿勢を取っている。殺人鬼ラスティン・パーが曾て住んでいた家の廃墟でのキャンプの際にエリカ・ギーアセンは主張する。BWPのヘザー・ドナヒュー達が夜間のキャンプ中にセックスしなかったのは不自然だと。 
 
 そして、「ビデオカメラで記録された映像」という、BWP、BW2の両作品での最も重要なモチーフの扱いにおいてこそ、監督の前作への批判的な視線が如実に現れる事になる。ラスティン・パー邸の廃墟でキャンプした事で"呪いを受け取ってしまった"らしい5人は、ツアーの案内役であるジェフリー・パターソンが住む廃工場へと移動するが、そこでも様々な怪奇現象に見舞われる。それらは大きく分けて3つに分類できる。
①犬の幻覚が見える、仲間が何故か電気椅子で処刑された死刑囚に見えるといった、呪われてしまった本人達の感覚を一時的に大きく揺るがす物。
②体に古代文字の様な傷が浮かんでくるという、本人の身体に直接影響を及ぼし、長期においてそれが残り続ける物(傷は最後には消えてしまうのだが)。 
そして最後が、③自らが曾て行った行動と全く異なる動作が何故か監視カメラに記録されているという、本人達の過去の行動や決断を根底から否定する物。例えば、怪現象に憔悴したキム・ダイアモンドがビールを買う為に車で地元の雑貨屋に赴くシーン。レジ前にビールを置いたキムを一瞥した店員は、何故か接客対応をせず怠惰に新聞を読み続ける。激昂したキムは丸めた紙幣を店員に投げつけビールを掴んで店を出ていく。しかし、映画の最後のシーンにおいてキムが取調室で見せられた店内監視カメラの映像には、接客を拒否されて怒り狂ったキムが爪用のやすりで店員の喉を突き刺し殺す様子が映っている。キムは自分がこんな事をしていない事を刑事達に訴える。これは嘘だと。「疑いようのない真実」としてBWPで扱われていた「ビデオ映像」というモチーフは、BW2でははっきりと「嘘」として転倒する。「さも真実の様に映っているそのビデオ映像は、実際は単なる嘘なのだ」と。
 


 私はこの映画を見て、スタニスワフ・レムが1970年に刊行した「完全な真空」の内の一編、「とどのつまりは何も無し」を思い出した。
 「完全な真空」は"実在しない書物の批評"をコンセプトにした評論集であり、ソランジュ・マリオ女史により執筆されたという「とどのつまりは何も無し」は、「列車は着かなかった」という一文から始まり、その次に「彼は来なかった」と続く、「存在に関してまったく何も肯定しておらず、ただもっぱら、起こらなかったことについて述べている」小説となっている。この物語(?)はその後に「語り(ナレーション)は非人称のまま進んで行き、時が春でもなければ、冬でも、夏でもないことを示」し、「無重力空間(つまり、重力が存在しないような空間)における愛されない女に関する考察によって第一章を閉じ」、第四章から第六章まではその中心に「思考しないことの流れ」が描かれ、最後には「語り手」自体を否定し、その存在を欠如させたまま「一つの文の途中、一つの単語の途中で終わる」。レムはソランジュ・マリオ女史のこの態度、この小説を、「誠実な傑作」であると評価する。信仰の時代、小説の役割はただ奉仕することのみであり、そこに嘘は無かった。近代化により文学がその奉仕から解放された結果、文学は自由を獲得する一方でそこに相当な量の嘘を残してしまった。その嘘こそが現代文学の主要な病の原因で恥辱であるとレムは言う。「作家であるということは誠実ではいられないことだ」という恥辱。よって、もはや嘘のみが語るに足る出来事でしかない以上、そこで文学者に残された誠実さとは「何も無いことを書く」という事になる。それがレムがソランジュ女史を評価する理由になる。

 BW2では監視カメラやビデオカメラの映像とフィルムに収められた「映画」としての映像の内容が事ある毎に食い違う。主人公達は言う、監視テープやビデオテープに映っている内容は嘘だと。ビデオカメラの映像はこう主張する。フィルムに映っている「映画」としての映像こそ嘘だ、こちらこそが真実なのだと。そして我々観客には、ただ並列されただけの2つの映像、そのどちらが正しいのかを判断できる要素は何一つ与えられてはいない。映画のラストで警官たちはビデオカメラの映像を「真」と判断して主人公達を裁く。それが常識だからだ。一方、我々の内の多くは、主人公達が取った行動、それらを記録したものとして扱われている「映画」の内容を「真」だと思う。わざわざ90分かけて観た映画が「酒やマリファナで酩酊した人達が人を殺しました」だけでは映画鑑賞として虚しすぎるからだ。警官も我々も、信じたい物を信じているだけという点では変わらない。そして、ここで新たな疑惑が浮上してくる。2つの矛盾する映像の相異なる主張、そのどちらもが正しかった場合。つまり、どちらの映像も嘘であった場合はどうなるのであろうか?と。どちらの映像も完全に信用できない以上、「ビデオカメラにもフィルムにも映っていない"本当の真実"」が存在する可能性があるのではないか?キム・ダイアモンドは店員を殺してもないし、店員に丸めた紙幣を投げつけもせず、そして、実際には車に乗って家に帰ったのではないだろうか?そして、そもそも彼等は廃工場に行かなかったのではないだろうか…? この疑惑のプロセスを経て、この映画は止まることのない仮定的な後退を始める。そもそも彼等はラスティン・パー邸の廃墟に泊まらなかったのではないか?彼等はブレアの森に入らなかったのではないか?そして、ブレアの呪いとは存在しないのではないか? 
 私にとってBW2の副読本「ブレア・ウィッチ2 暗黒の書」の感想を書く事が困難な理由はここにある。この本にはバーキッツヴィルでの森の怪現象や登場人物達についての様々なデータが記載されている。それ自体はとても興味深いものだ。しかし、前述した通り、BW2におけるブレアの呪いとは最早"現象"ではなく、ブレアの呪いそのものの存在すらを危うくする強力な"否定"なのだ。その「何も無いかもしれないこと」の前に立ち、そこに「何かがある」と信じてそれを微細に観察する事、無邪気さを装いながら嘘とも本当とも判らない態度に身を投じ続ける仕草、そこから何かが得られるとは私には思えない。実際にバーキッツヴィルの森に入ってしまったのだとすれば話は別だが。

 BW2での「呪い」が「否定」であるとすれば、それではその前作BWPでの「呪い」は何を表していたのか。レムは同じく「とどのつまりは何も無し」の書評で「反小説(アンチロマン)」(ヌーヴォー・ロマン)について以下の様に書く。もはや小説とは多量の嘘でしかない事を感じとった後続の文学者達が「いかにして書くか」にますます腐心した結果に生まれた前衛的な小説群、それらに対してのレムの評価は「森の中でただ発見されたビデオテープ」であるBWPの特徴とも非常に似通ったものだ。
「「反小説(アンチロマン)」は、いっそう過激なものになろうと努力してきた。つまり、それは意を決して、自分がいかなるものの幻影でもない、と力説したのである。…(略)…「反小説」は、もはや何の振りもしないものとなるはずだった。自分で自分の正体を暴き出す魔法使の振りさえ、もうやめたというわけである。つまり、それが約束していたのは、何も伝達せず、どんな情報ももたらさず、何も意味しないこと、―そして、そのかわり雲や、テーブルや、木のように存在するだけのことだった(完全な真空 P92、P93)」 
 この言葉はそのままBWPという"存在"、森で発見されたビデオテープを何の作為も無いままにただ提示しただけというコンセプトを表していると言えるだろう。しかしビデオテープは反小説とは違う。それは、「ブレアの魔女の呪いが存在すること」を雄弁に聴衆へと伝達する。実際の世界には存在しないものを、"有るもの"として。

 ジョー・バーリンジャーは、BW2においてその危険性への警鐘を鳴らしたのだと思う。「"無いもの"が"有るもの"として伝達された時に何が起こるのか」。その時全ての情報は等価値になる。キム・ダイアモンドは雑貨屋の店員を刺し殺したのか否か、それは各々が各々の信条や事情に依って好きな情報を信じていい。自由だ。しかしその時に"情報"として視られている対象の人権は剥奪され、その人間が選択した実際の行動は闇へ葬られる。そしてその様な状況で最後まで他人を制定できる人物とは、"よりよい特等席に座れている者"だけなのだ。そこにおいて真実は完全に棄却される。 BWPの態度は、社会を根底から揺るがす混沌へと我々を誘う致命的な綻びなのだ。バーリンジャーはそう考え、BWPの続編を、すべてがまやかしであり、それ自体が無限に後退していく物語として成立させる事で、BWPの危険性を暴き立てた。「物語」とは結局「とどのつまりは何も無し」な「見世物」なのだと。その前提を越えて「物語が現実の振りをする」事は"情報"という概念の神性を汚す事であり、そこから先に広がるのは信用に値するものが何一つ残らない荒野でしかなく、そこでは世界は弱者や運の悪い者が踏み躙られるものとしてとしか発展しないのだと。
 いわば、実際に起こったBWPの呪いとは、森に入った人間達を閉じ込める事では無かった。それは現実と虚構を等価値に見做す社会の到来をエンターテイメントとして肯定した事だった。そこでは強者が「神話」や「呪い」の様な超常性を帯び、弱者は泣き顔を笑われる様な「見世物」になる。
 そして今、世界は実際にそうなりつつあるとしか思えない。とりあえず私には、SNSに流れてくる写真が実際のものなのかそれともAIが制作したものなのか一切判断出来ない。ツイッターは、本来ネット上での自由な意見交換を目的として作られたSNSだと思うが、実際には「笑う者/笑われる者」との間にはっきりと境界線が引かれ、多くの人が強者のサークルに属したがっているとしか思えない。

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 自分は現在中野に住んでおり、よく中野ブロードウェイに行く。多くの人が指摘している事だが、いつの間にかビル内の大半の店舗が高級腕時計を扱う店になった。ツイッター内で事情を説明している人がいたのだが(真偽は不明)、不動産屋の世代交代などの理由により店舗の月毎賃料が高沸して、もう高級腕時計やハイファッションを扱う店でないとその価格設定に対応出来ないそうだ。
 自分はファッションにも腕時計にも興味が無い為、なぜここまでこれらに高い値段が付けられ、これだけ多くの店舗が並ぶのかが不思議だった。なぜ時計が1500万円で売られるのか?なぜバッグが2800万円で売られるのか?
 その疑問の一部は、当のブロードウェイ内に貼られていた腕時計屋の広告によってやっと氷解する事になる。そこには堂々と、「投資対象としても、一流の目をもって対応させて頂きます」みたいな事が書かれていた。
 
 あっと思った。投資対象!つまり、買って、何年か寝かせて、それから転売して利益を出す!そういう対象!
 
 それが分かった時、申し訳無いが、心底嫌気が差した。もちろん純粋に物質として1500万円の腕時計を愛好している人もいるのだろう。そういう人には申し訳無いが、私は心底ブロードウェイ内に並ぶ腕時計屋に嫌気が差した。ブックオフでバーコードを読み取り転売価格を調べるような不敬な輩は店から注意され最悪出禁になる。1000万位する腕時計を取り揃えている店に転売目的で入る輩は店から大手を振って迎えられる。それが資本主義においての正しいやり方らしい。当たり前だがそこには腕時計という物質、それが出来るまでの様々な試行錯誤や実際のプロセスに対してのリスペクトなど何も無い。そこにあるのは何かを移動させて利益を産む事で己の食欲、性欲、睡眠欲、その他諸々の欲望…を満たさんとするせせこましい意図しかない。勿論、その様な意図を持った客は店側に取っても歓迎したい客ではないのだろう。だが、そのせせこましさが1000万の腕時計や2000万のバッグによって、例え一部分にせよ肯定されているという事実を知ったらもう駄目だった。

 きらびやかなディスプレイと共に高級品が陳列され、その内に人間の欲望を渦巻かせているブロードウェイの腕時計屋の前を通る時、私はよくBWPで森を彷徨っていた三人の男女の事を考える。ブレアの呪いがかけられた場所に閉じ込められた学生達としてではなく、ただただフェイクドキュメンタリーを撮るために演技をする三人の役者として彼彼女等を考える。ブレアの呪いなど実際には存在しない。しかし、それをさも有るかのように振る舞わないと、この撮影は終わらない。つまり、この森から出る事ができないのだ。自分なりの審美眼を持って数千万円の腕時計を購入する様な人物がどれ程いるのだろうか?実際は金持ちが転売目的で買ったりしてるだけでは無いのか?しかし、資本主義はその虚構に、「とどのつまりは何も無い」事にもう耐えられないだろう。「ない」ものを「ある」として我々は振る舞わないといけない。単なる転売厨をセンスに満ち溢れた好人物として見做さないと、なぜ2000万円で売られているのか全く解らないものを、2000万円の価値が「ある」ものだと演技しないとこの撮影は終わらない。この森から出る事は出来ない。
 しかし、いつそれは終わるのか?

 私はこれからもブロードウェイに行くだろう。三階に立ち並ぶ腕時計屋を素通りして四階に行けば、運が良ければ古本屋が開いているかもしれない。おそらく私はそこで下らない物語を山の様に買うだろう。 
 BW2には極めて感動的なカットがある。それはビデオカメラの前で主人公達が裸になり我を忘れてバカ丸出しでしつこく踊りまくるシーンだ。はっきり言って、「これぞ青春」としか形容の仕様が無い程に羨ましい、生命感に溢れたシーンなのである。しかし、それを見た主人公達は全員がその光景を否定する。ここまで恥知らずな事をしているのは自分達ではない、これは実際に起こった出来事ではない、これは呪いなのだと。
 私は彼彼女等に言いたい。いや、あの素晴らしい瞬間は間違い無く"有った"、私はそれを"見た"のだと。私はそれを見て泣いたのだ。

 あの、凄まじく強烈かつ白痴的で、なおかつ涙が出る程に美しい瞬間を実際に起こす事、それこそが現在における私の人生の目標だ。
 そして、それこそがブレアの森から抜け出せる唯一の方法であるのだと信じている。


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