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グリーン・デイのCGの風船(中編)

(↓前編からの続きになります)


 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドがロックに持ち込んだ過激さは、当然の如く後の世代にも継承されていった。が、キャッチーかつコマーシャルである事を憚り無く標榜した後継バンドの多くは、ルー・リードの歌詞による「ドラッグ」や「SM」などの"イメージ"の過激さをより研ぎ澄ませる事こそがロックを加速させる為の鍵なのだと考え、反対に、ジョン・ケイルが現代音楽のフォームを経由させて楽曲中で炸裂させた、時に西洋音階の範疇を飛び越えのたうち回る不協和音、ヒスノイズそのものの"エネルギー"を、余計なものとして無視、もしくは単なる装飾音として過小評価した傾向が強いように思う。ああいうグチャグチャした音は商品として売りにくいからだろう。 
 (俗に言う)ノイズという音楽、または単なる音は、聴く人の感性によって千差万別にその印象を変化させるため、大勢の人達に共通の認識を持ってもらう事がとても難しい。せいぜい「うるさくて気持ち悪い」くらいが関の山ではないだろうか。基本的にノイズとは社会の外側に有る謎現象として眺められるのが自然な状態であり、優れたポップの様に「聴衆の全員に一定の気持ち(楽しさ、悲しさ、切なさ等)を呼び起こす楽曲」、悪く言えば「自分の気持ちを、既に行き先の決まっている場所へと連れていってくれる道具」として社会の内側で流通し評価される事はあまり無い。というかほぼ無いだろう。サッカーの試合中に選手達を鼓舞するために観客が声を合わせて応援歌を歌うが、あれが、客の一人一人が「選手達、がんばれ!」という気持ちと共にシンセやエフェクターを各々が持ち寄ったアンプにブチ込んでノイズを出しまくる行為だったらかなり嫌な筈だ。私は見たいが。
 それに相反するように、ポップとはある社会内において、その構成員達が同じ価値感を共有する事を担保として流通する通貨になる。そして通貨のデザインに抽象性はそこまでは必要とされない。装飾音のように「無いよりは有る方がいい時もある」程度のものになる。
 (私はその事を批判する訳では無い。通貨がなければ社会は相当えらい事になるだろう)

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 先日、オフィシャルでYouTubeに挙げられてるローリング・ストーンズの"Tumbling Dice"の1978年のライブ映像を見たら、ミック・ジャガーが意気揚々とナチスの鉤十字の上にDESTROYと書かれてあるヴィヴィアン・ウエストウッドのTシャツを着ていて驚いた。勿論セックス・ピストルズを意識していたのだろう。ScreamersのボーカルのTomata du Plentyみたいな不思議なステージアクションをしていたので、もしかしたらLAパンクも視野に入れていたのかもしれない。そこまで流行に敏感である事が第一線で活躍するロックバンドになる為の秘訣なのであろうが、鉤十字をプリントしたシャツをメンバーが着てる映像を公式が挙げるなよと思った。その内この映像は削除されるかもしれない。いまミック・ジャガーが同じ格好でスタジアムに立てば確実に世紀の愚行として歴史に残り、世界中のストーンズのアルバムが廃棄処分されるだろう。
 年を取れば取る程に、私にとってパンク・ムーブメントは謎めいた現象に見えてくる。第二次世界大戦の終結からたかだか30年弱の期間を置いて、ファシズムを象徴するマークがある種の若者達からファッションアイコンとして熱狂的に支持され、「未来が無い」という内容のロックが持て囃され、既に大御所のバンドまでがその影響を受けたのは何故なのか。仮にこれから数年後の日本で「この国はもう終わりだあ〜!」と叫びながら演奏中に機材をブチ壊し、着用しているTシャツにはDESTROYの文字と共に麻原彰晃の顔写真がプリントされているロックバンドが大人気を博し、負けじと同じTシャツを着た桑田佳祐が「くらえ〜!」と喚きながらジッポオイルでドラムシンバルに火を付けた後に「いとしのエリー」を熱唱して東京ドームを狂熱の坩堝へ叩き込む様な事態が果たして起こるだろうか?ない。そう考えるとパンクの勃発という出来事は本当に謎だ。当時のイギリス情勢を勉強しない限りはパンクの実状を正確に把握出来ない気がする。

 一見すれば分かるように、パンクロックという音楽ジャンルは異常なまでに過激なイメージに満ち溢れていて、常識のある老人達を逆上させ憤怒の沼へと引き摺り込む不謹慎なイメージ、チャイルディッシュな悪意のアイコンの塊としての様相を呈している。
 その様な表現は得てして見世物になりやすいが、あくまでもクールに、客から一歩引いた目線で見られないように、同世代の不満に溢れた若者達を巻き込む様な"エネルギー"として存在するためにパンクロックが取った方法、それは、「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのバナナのシールを乱雑に破り取り、一部分だけを残す」行為だった、私はそう思っている。


 この場合、どのようにしてバナナのシールが剥がされたのか、その"運動"自体を捉える事は出来ない。しかし、相当の激しい行為が行われたであろうことがその痕跡からは想像できる。そうやって、"運動の激しさ"自体を"イメージ"として解りやすく表し、そして大衆に認識してもらう事、それがパンクロックの多くが選んだ戦略だった。それはまたアルバムに書かれていた「ゆっくり剥がして」という注意書きに従う事が出来ない自らの性分をも表していた。

 パンクロックは「激しい運動」自体をポップなイメージに変換し、一般大衆が所属する共同体の内側へと貨幣の様に流通させた。しかし、その方法は「バナナの皮のイメージ」という「運動の起点」、その破れ目から「剝かれたバナナのイメージ」という「運動の終点」が垣間見えるという、始まった瞬間から既に終わりを予見させるものでもあった。このままこんな事を続けていればメンバーはヤク中になって死ぬだろう、このような音楽性はすぐに行き詰まるからせいぜいシングル一枚出せればいい方だろう、パンクにはその様な暗い諦念が付き纏う。そもそもがNO FUTUREというフレーズを伴って世間に知れ渡ったジャンルなのだ。

 パンクの後ろ暗さを体現した例、として最適なのはやはりGGアリンになるだろう。70年代の後半、jabbersというバンドを率いてパンクシーンに華々しく躍り出た(初期の曲は本当に名曲揃いだ)彼は、活動を続けると共に薬物に溺れ、バックバンドを替えながらも曲の内容は「警官を殺したい」「自殺したい」と悲惨極まるものになっていき、後期のライブではビキニパンツ一枚を着用しただけの姿で客と殴り合い、血塗れになりながら単なる嫌がらせとして糞便を投げ付けるという、どん詰まり以外の形容ができないステージングを繰り返し、オーバードーズで死んだ。末期のGGアリンの背後には常に色濃くやるせない終点がへばり付いていた。私はその有様を面白がる気にはとてもなれない。初期の音楽性を発展させたままどうにか出来なかったのだろうかと思う。

 ある運動の始点と終点を同時に存在させる事で、その運動自体を解りやすいイメージとして翻訳する事は別にパンクだけが取った方法ではない。一例を挙げれば、2019年にツイッター内で発表され大好評を博した漫画「100日後に死ぬワニ」がある。始まった瞬間から「死まで100日」という終りが見えている構造、毎日発表される漫画の最後に「死まであと○○日」と表記される残酷な終点が、主人公達の何気ない日常生活をエモーショナル極まりない運動へと昇華し、多くの人達がその様子を固唾を飲んで見守った。
 さて、仮に今から「100日後に死ぬワニ」の二番煎じを狙う漫画がツイッターに発表されたとすれば、その内容はどの様なものになるだろうか。「50日後…」「爆死…」等、恐らく規範となる漫画の一部分をエスカレートさせて手っ取り早く聴衆の耳目を集めようとする内容になっているのではないだろうか。
 パンクの過激さと暴力性も、二番煎じを狙う様な単純な連中によってエスカレートしていく事になる。2004年10月号の雑誌「DOLL」の増刊として刊行された「LAパンクの歴史 ジャームスの栄光と伝説」は、1970年代末に活躍していたジャームスというパンクバンドの元メンバー(ボーカルのダービー・クラッシュは1980年に自殺している)並びに周辺人物へのインタビューを纏めた物なのだが、そこにはハンティントン・ビーチからやってきた若者達が、それまでのパンクシーンを壮絶かつ無意味な暴力で塗り潰していく様が克明に描かれている。

 マイク・アッタ フリートウッドでのジャームスとのライヴをよく覚えてるよ。観客はステージを背にして立ってて、バンドが演奏を始めると同時にお互いをボコボコにしてたね。(P225〜P226)

 ヘレン・キラー 新しいパンクスは間違った考えを持ってた。ニュースによれば、パンクは暴力的なんだ、というイメージを植え付けられてしまってたの。そのうち、スキンヘッドのナチス党信奉者まで登場する始末よ。パンクはどんどん醜いものになっていってしまったわ。もう楽しいものじゃなくなってしまったのよ。お互いのことをボコボコにしてるだけのショーになってしまったわ。(P175)

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 キャッチーなフレーズと覚えやすいメロディによって今も尚高い人気を得ているグリーン・デイは、言わずもがな世界的に最も商業的に成功したパンクバンドだ。1994年に出したメジャー・デビュー・アルバムの「ドゥーキー」は現時点で2000万枚売れているらしい。 
 活動初期においてのグリーン・デイによるパンクの在り方とは、過激なイメージを羅列する事で激しいエネルギーを演出する事では無かった。むしろ、その真逆だった。 

 "君が立ち上がり闘うチャンスが来る前に
 名誉がきっと君を打ちのめすだろう
 俺は特別な存在じゃない
 俺にはプライドが無い"
 (NO PRIDE)

 「自由になる」という事が「強大な力をもって、自分の手が届く物全てを蹂躙する」という状態を意味せず、逆に、「どこまでも無力である」事こそが自由である、と定義する人達がいる。例えばある種の二世政治家は何度も失言を繰り返し、国会で問題を追求されると笑ったりする。彼等が望んでいる事は「自分がどの様な酷い事を言っても、決して誰も傷付かない、自分はなにをしても誰も傷付けられない、だから何をしてもいい」という状況、「自分が何をしても、誰も気にしない」という状況だ。
 初期のグリーン・デイの立場もこれと似たものになる。彼等は極限まで自分達を矮小化し、取るに足りない存在、まるで「無」の様に振る舞う事で自由であることを目指した。メジャーからのセカンド・アルバム「インソムニアック」の中の曲、"WALKING CONTRADICTION"のpvにその事は解りやすく現れている。
 
 「俺は無信仰で でも俺は信じている 俺は歩く矛盾で 何の権利も持ってないんだ」という歌詞をバックにビリー・ジョー、マイク・ダーント、トレ・クールの三人が街を歩いている。ビリーは拾った棒を何気無く投げ捨て、それによって彼の背後を走っていた自転車は転倒するがビリーはそれに気付かない。坂道を歩くトレの後ろからブレーキの外れた大型車が迫ってくる。トレはそれに気付かないまま歩き続け、大型車は他の車を破壊しながら彼の横を通り抜ける。新聞を読みながらビリーは車道を横断する。行き交う車は彼を避けるために横転したり他の車と衝突したりする。彼はそれにも気付かない、もしくは気にかけない。ただ歩き続け、そして合流した三人は車に乗り込み悠然と去って行く。「何の権利も持っていない」彼等は、そこで起こっている全てのトラブルから無縁な存在として有る。

 contradictionは日本語では「矛盾」と訳される。私が持っている英英辞典のOxford Advanced Learner's Dictionary を調べると、二番目の意味にこう表記されている。

 (between sth and sth )lack of agreement between statements, facts, actions, etc, so that at least one must be false

 (何かと何かの間で) 申し立て、事実、行為などの間に一致が見受けられない事、なので少なくとも(それらの内の)一つは間違っている。

「俺は無信仰で、俺は信じている」という、起点と終点のどちらかが間違っている謎の理論。この起点から終点までの"運動"を成り立たせる方法はこの世界には存在しない。その矛盾を彼等は肯定する。自分たちがこの世と関係無い、別世界を縦横無尽に横断、つまり"運動"する思惟的な存在であるとして、その場所から完全な自由を要求する。彼等の"運動"の観測不可能性、並びに彼等の主張を、サード・アルバム「ニムロッド」はそのジャケットを用いて簡潔に表現した。

 nimrod、"バカ"という意味のスラングが書かれた黄色い円形が、各々の写真の顔面に貼られている。しかし、それは決して剥がす事が出来ない。nimrodと書かれた円形を始点とし、写真の顔を終点とする、本来同じ場所にあるべきでない、少なくともどちらかの一方が間違っている2つのイメージの間に存在する"運動"を捉える事、それは私達の想像によってしか達成出来ない。そして、この円形によってその社会に属している全員の顔が隠される時、それは誰もが何も観測出来ず、誰もが同じ、特別な存在では無い世界になる。
 
 グリーン・デイはその様な状況を要求していた。膨張しながら世間に流通し続けるパンクロックの過激なイメージ、をもって翻訳された"エネルギー"それ自体を、自らがどこまでも無力になり続けることで本来の混沌へと還元しよう、観測不可能な状態へと戻し、そこから自由を始める事、それがグリーン・デイが初期の楽曲に込めた主張であった。

(つづく)

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