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風景が流れていく

 自分は現在夜勤の仕事に従事しており、ただただ辛い作業、こんな事書いても仕方が無いのだが先日は忙しすぎて遂に飯を食う暇すら取れず夜中の3時に昼食代わりにハリボーグミを一気食いする始末、もはやあのちゃんですらこんな無法者みたいな食生活送ってないだろう、本当にマルクスが目の前にいたら土下座したい、資本主義に飼い慣らされた傀儡と化してすみませんと慚愧の涙を流しながらドタ狂いたい、という様な作業が終わってから近所でやってる24時間体制のスーパー銭湯に入り、その後に神保町に移動して古本街をフラついて周る事を細やかな楽しみにしている。
 少し前にXで「中年男性がサウナにハマるのは、身体能力や容姿が衰える事でセックス(により脳の報酬系が刺激される)機会が減少するためだ。その代役としてサウナに入り報酬系を刺激するのだ」、みたいな説が流れており、真偽は不明だがさもありなんと思った。自分は利用料金が高くなる為サウナには入らないが、「お前はセックスの代わりに風呂に入っているのか?」と詰問されれば、「まあ、そうかも」とは答えるだろう。ここまで孤独な人生、その可能性も無いとは言えない。かつて漫画の「美味しんぼ」は、ラーメン屋のカウンターに並んで麺を啜っている人々の形相に"寂しさ"を見出し、その理由は「アジア人であるという暗い情熱」にあると結論付けていた。サウナ室に籠もり熱波に耐えている中年男性の顔触れからも、"愛への飢(かつ)え"、それが歓楽街のネオンが消えた後の街灯の如く現れる事がある。自分の人生はもっと愛に溢れている筈だった。少なくとも朝の10時から一人でサウナに入る自分を想像してはいなかった。妻子と共に公園でボール遊びをしている筈だった。
 ハードボイルド小説に出てくる探偵が物憂げにマンハッタンの街並みを眺める様に、サウナ室の中年男性達はやるせない瞳をもって、壁面に取り付けられたTVから流れる料理番組をうつろに凝視する。フライパンでキャベツが軽快な音楽と共に元気良く炒められ、菜箸を使ってチェック柄を配われた大きな皿に盛り付けられているンゴねぇ… などと茫洋としながらも、「自分は老いたが、単なる熱風をセックスと勘違いしてでも生きぬいてやる」という暗い情熱がその部屋には横溢している。ご立派。これからは中年と書いてご立派と読んで欲しい。無論私もその範疇に含まれる。

 熱い風呂の後に水風呂に入るのが何となく私の中でルーティンと化している。水風呂に入るコツは、「もう、どうでもいいや」と思う事だ。自分の体が熱かろうと寒かろうと、もうどうでもいい。知らん。人生が凄すぎてそれどころじゃねえ。これから買う古本の事だけ考える。そうするといつしか自分は水風呂の中に入っている。その後に熱い風呂に入り直すと、自然と「あったかいんだからぁ~」というフレーズが口に出る。中年の烙印だ。かつて私はこの曲が大嫌いだった。どう聴いてもサザンの真夏の果実のパクリでしかないからだ。が、セックスの代わりに風呂に入る様な歳になると事情が変わってくる。中年が特に気を付けないといけないのが体温の低下、それに伴う活動力の低下だ。寝起きにその状態になって、運が悪いと布団から出られずにそのまま餓死とか絶対にある。そして、そういう悲惨な存在を慰撫してくれる曲のモチーフは、やはり、マイナス100度の太陽よりは、単なる"あったかいんだからぁ~"という「優しさ」に軍配が上がる。暖かさ。セックスの代役物。食欲、性欲、睡眠欲の三大欲求は肉に例えるなら脂身の様な物で、バカでも分かる甘さを備えながらも、ただただ摂取した人物の魂を太らせ続ける作用しか施さない。37度のぬるま湯の中でおっさんは際限無くバカになっていく。あったかいんだからぁ~がサザンのパクリとか本当にどうでもいい。そもそもサザンがいろんな曲パクってるし。そもそもどっちも俺の作った曲でもなんでもないし。

 歳と共に加速度的に様々な事がどうでもよくなった。かつての自分が「こんな腑抜けた音楽ロックじゃねえんだよ!!」と激昂していたバンドの曲も、認識力の低下によって何の抵抗も無く聴ける様になった。ロックだとかロックじゃないとか別にどうでもいい。俺が作った曲でもないんだし。

 かつて私はロッド・スチュワートというアーティストを全く信用していなかった。こんなジャケットのアルバムが面白い訳が無いと判断し一切聴いていなかった。ところが最近聴いてみたらもう!!素晴らしいにも程がある。Do Ya Think I'm Sexy? の完璧な世界観に私は涙した。

Rod Stewart - Do Ya Think I'm Sexy? (Official Video) [HD Remaster]

 だから自分が若い人達に言いたいのは、些細な理由で何か特定のバンドの曲を毛嫌いして一切聴かないとか、凄くいい行為だと思うよって事です。貯金だからね、それ。どうせ年取ったらそのバンドの曲を聴くんですよ、過去の自分なんて単なる他人でしかないんだから。そこで曇っていた目が開かれる訳です。「こんな凄いバンドを俺は見逃していたのか?!」と。そしたらもう、パラダイスですよ。ロッド・スチュワートのアルバム何枚ある?今から新鮮な気持ちで聴ける訳です。青春の再来ですよ。そういうバンド俺いっぱいあるから。プライマルスクリームとか。過去の自分に感謝です。「〇〇というジャンルが好きで✕✕というアーティストを知らない奴はモグリ」みたいな風説あるじゃないですか。ほっとけそんな奴。そいつからモグリと思われても何も損しないです。


 私はやはり若い頃、「車をカスタマイズして深夜帯の峠を猛スピードで駆け抜ける」という文化が一切理解できなかった。なのでそれらを題材にした漫画にも目を向ける事は無かった。だが、先日偶然読んだ「頭文字(イニシャル)D」。その内容の素晴らしさに私は打ちのめされて半ば昏倒した。まだ数巻しか読んでない人間がこんな事言うのもおこがましいが、4WDに乗る須藤京一が定義する峠でのレースバトルの概念、曰く、「知識、戦略、勇気…そしてマシンとドラテクのすべてを総動員して戦う奥の深いゲームなんだ」が、著者の画力、構成力、話作りの巧みさ、それらをもって凄まじい迫力で読者の前へと立ち現れてくる。峠でのバトルはそれ本来がイリーガルな催しであり、その観客は目の前の道路を猛スピードで走り抜ける2台の車を一瞬見るだけだ。基本的に記録に残らない、残りにくいもの、スピードやエネルギーそれ自体に、主人公の拓海やライバル達は誠実に命すら賭けている。ただ、速く奔る事が好きだから。そこに本当に感動した。

 152話目の「ミスファイヤVS.低重心」の扉絵は、高低差のあるヘアピンカーブを2台の車が今まさに曲がろうとする寸前の光景を見開きで描いたものだが、ここには不思議な特徴がある。普通この様な場合はスピードを演出する補助線を車に描き込むのが定石だと思うが、「頭文字D」ではその演出が風景に成され、その代わりに車は静的な物質として描かれている。つまり、主人公達が乗る2台の車の周りの風景が高速で流れている様に見えるのだ。「頭文字D」のレースシーンでは全コマに渡ってこの描写が通徹されているのだが、この様な事態は現実では絶対にない。この錯覚が示す状況とは「読者が車の搭乗者と同じ時間軸に位置しているので、まるで風景がただ流れていく様に感じる」に他ならない。読者は「頭文字D」の世界の中で、車の搭乗者と共に、外側から観測する事が困難な"今自体"に存在しているのだ。この描写がこの作品に並々ならぬリアリティを与えている。と同時に、作品が発表されたのが90年代後半という事実も含め、私は「頭文字D」を読みながらボアダムズの「スーパールーツ5」「スーパールーツ6」を思い出していた。

 95年に発表された「スーパールーツ5」は、64分を超える1曲のみで構成されている。最初の5分間は、おそらくEYE氏の声を電子的に加工した音が小音で引き伸ばされたりしているのだが、だしぬけにEYE氏が「GO!!!!!!!!!!!!!!!!!」と叫んでからは弩級の轟音が打ち鳴らされる。シンバルは乱打されギターが鳴り響く。20分と40分には小休止めいた空白があるが、それ以外の時間ではただ様々な楽器によって作られた爆音が続くだけだ。
 「作品に、作意の跡がほぼ見当たらない」という特徴がこの作品に不思議な印象を与えている。所謂ノイズというジャンルの音楽でも、音階やリズムを無視した無秩序の中に作者の美学や作意が垣間見えるものだが、「スーパールーツ5」にはそれが無い。悪い言い方をすれば、ただやりっ放しであるだけなのだ。
 EYE氏は当時雑誌のインタビューでこの作品の事を聞かれ、「ジャーンという音が好きなので、それをずっと続けてみた」という意の発言を返していた。それはつまりどういう事なのか。ボアダムズは"今"の中へ入り込み、"ジャーン"という音を持続させる事によって"今"という瞬間を拡張したのだ。その行為を外側から観測できるボアダムズは存在しない。彼等は"今"の中に入っているので。なのでこの作品には作意が無く、まるで生物の営みの様に、ただ行為だけが在る。


 翌年に発表された「スーパールーツ6」は、前作とは打って変わって全17曲の、正規の作曲が施された作品が並ぶアルバムとなった。この作品のタイトルはすべて単なる数字で表されている。その事を私はこう考える。ボアダムズは、「スーパールーツ5」という"行為"によって拡張された"今"、今度はそれを外側から観測し、その運動の軌跡を、関数を使って把握するかの様に、数字に"分割"する事で翻訳(作曲)したのだと。
 そして、その2曲目にあたる"0(✕12)"という曲を聴いてみて欲しい。この曲は「ピッ」という電子音の後は全くの無音の様に聴こえるが、音量を上げてみれば、そこでは極めて小さな音で、鐘が12回鳴らされている。
 "今"そのものを拡張させ、そして今度はそれを限りなく分割させゼロに近づけていく事で、ボアダムズは"スーパールーツ5"の最小分子を定義し、曲として発表した。それは、0を掛けられた12が0に成らず、掛けられた12と0が互いに干渉しあう状態という、数学的には完全に間違った意見である。だが、それがボアダムズが出したマニフェストだった。Aが0に限り無く近くなっても、それでもその場所にAは残り続けるのであり、それは決して消えないのだという主張。

 それは、当時、未知のコンセプトを以って世の中に台頭し、急速に発達し始めていた、全く新しい通信手段に対してのリアクションだったのではないだろうか、と私は考える。つまり、インターネットのことだ。

 パソコンを通じて見知らぬ人間との対話が可能になり、大量の情報が流れ込んでくるらしい。…が、しかし、それはつまり何なのか。当時多くの人が混乱していたのではないだろうか。もしかしたら一過性のブームだと思ってた人すらいたかもしれない。

 自分が高校生の頃、パソコンが使える友人の家でニルヴァーナの未発表曲をダウンロードした事があった。時代はインターネット黎明期、約二時間半かけてファイル解凍した末に現れた"opinion"という曲を聴きながら、自分は違和感を拭い去る事が出来なかった。ニルヴァーナの未発表曲を無料で入手する行為が一般的になるとすれば、その時社会はどうなるのか?大量の情報がパソコンへと流れ込む時、その情報の価値は果たして上昇するのか?

 ツイッターというメディアはインターネットの特徴を良く表していたと思う。 「いまなにしてる?」という表示が指し示す通り、 上方にスワイプし続ける事で限り無く"今"に近付く事は出来る。しかし、決して"今自体"へ到達する事は無く、ただ、今、何が起こったのかを、個人個人が140字の言葉を使って説明した物が羅列される。それは翻訳された"今"ではあるのだが、その"今"の中に居ながらも、運悪く誰からも見られていなかった出来事や人間は、まるでダイソーの店員の受け答えの如く「そこに無かったら無いですね」とゼロとして処理される。インターネットは余りにも乱暴にこの世を整理する。それ故の「分かりやすさ」ももちろん魅力なのだが。
 恐らく、その様なインターネットの残酷な性質は90年代後半の時点で既に大勢の人達にうすうす勘付かれていたのではないだろうか。今迄の常識を遥かに超える大量の情報が取り扱われるという事は、その中に埋められた弱者の存在がほぼゼロと見做される事と同意であると。
 その抑圧への反動から、90年代末に身体性を重視したムーブメントが幾つか勃発し、その内の一つが、あの当時野外で開催されていた多数のレイヴパーティーだったのではないかと自分は思っている。
 その中でボアダムスやメンバーの別ユニットは多大な人気を博していたが、彼等が支持されたその根本にあった物は、あの"0(✕12)"の思想、「大勢の人間が集まるだけで"今自体"は生まれ、ただ"今"の中に在るという理由だけで個人個人はゼロでは無いのだ」という考えだったのではないかと思うのだ。冗談でも何でも無く、自分はボアダムズの""0(✕12)"が日本レイヴ史において重要な一曲であると考えている。
 90年代後半の日本は、身体性や運動性をテーマにした表現や物語が今よりも重要視されていたと思う。西洋音階とは違う(音を西洋音階で分割しない)やり方でロックを奏でる灰野敬二を、聴衆は固唾を呑んで凝視していた(勿論現在でも固唾を呑みながら凝視されている)。95年から99年まで週刊少年ジャンプで連載された「ジョジョの奇妙な冒険」の第5部では「結果だけが残り、その途中は全て無意味である」という、A点からB点までの運動の否定が大きなテーマになっていた。
 インターネットが世界を覆った場合、それは我々にどの様な影響を及ぼすのか。それを皆が模索している時代だった気がする。そして、その不安に「スピードに全てを賭けることで今自体へと没入する」という形で答えた、その行為によって自らの存在を確立せしめた表現こそが「頭文字D」だと私は思った。


 かつて中原昌也氏は、雑誌のスタジオボイス上で「オルタナティヴとは何か?」という質問に、簡潔にこう答えていた。
 「インターネットを切断すること」
 90年代の後半、インターネットによって己の存在がゼロと見做されるかもしれない、という恐怖と闘った全ての表現は、自分の存在を他者に譲り渡す事が無かったという理由から絶対にオルタナティヴだ。「頭文字D」は私の中で聳え立つオルタナティヴであり、闇夜を切り裂いて猛り狂うエンジンの咆哮は、三大欲求以外の全てがどうでも良くなりそうな毎日に立ち向かう気力を与えてくれる。ハチロクと共に私は峠を走っている。いつだって。


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