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(雑感)すべて真夜中の恋人たち

自分の気持ちを伝えたり、動いたり、他人とかかわってゆくのって、まあすごく面倒で大変なことじゃない?誤解されるのはうっとうしいし、わかってもらえないのは悲しいし、傷つくこともあるだろうし。でもそういうのを回避して、何もしないで、自分だけで完結して生きていれば、少なくとも自分だけは無傷でいられるでしょ?あなたはそういうのが好きなんじゃないの?

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』331頁以降

そういう人たちが傷つかないで安全な場所でひっそりと生きてられるのは、ほかのところで傷つくのを引き受けて動いている誰かがいるからなのよ。

川上未映子『すべて真夜中の恋人たち』を読み終え、冒頭に引用した言葉が心に引っかかっている。ざっくりと背景を説明すると、主人公は内気な性格で友達も少ないフリー校閲者・入江冬子。唯一の友人といえるのは、取引相手でもある出版社の校閲社員・石川聖だけ。石川は社交的な性格だが、自分の意見を正しいと信じて疑わない性格から、彼女を苦手とする人も少なくない。入江は三束という男に惹かれてゆき、プライベートにずけずけと踏み込む石川を鬱陶しく思うようになる。石川と次第に距離をとってゆくも、石川は入江の自宅におしかけ冒頭の言葉を放つ。ちなみに、三束は入江に対してある嘘をついており、彼はそれを告白したのち入江の前から姿を消してしまう。

この物語の最後は、心に小さな傷を抱えながらも、他人と混じり合って生きていこうとする入江の未来を示唆して結ばれる。書評を読んでみると、孤独だった頃の入江を憐れみ、変わってゆく姿を鼓舞するものが目立った。たしかに変化する前の入江の人生は孤独なものかもしれないが、それは哀れなのだろうか。石川が非難する「自分だけで完結して生きていれば、少なくとも自分だけは無傷でいられる」という生き方は、間違ったものなのか。僕自身が割とそういう生き方をしている自覚があるから、この言葉は少しばかり僕を動揺させた。

「自分の気持ちを伝えたり、動いたり、他人とかかわってゆくのって、まあすごく面倒で大変なことじゃない」。「誤解されるのはうっとうしいし、わかってもらえないのは悲しいし、傷つくこともあるだろうし」。石川の放ったこれらの言葉は、その通りだ。僕自身も、「A」ということを伝えたかったのに、「A’」や「A””」として伝わってしまい誤解を与えてしまった経験も少なくない。コミュニケーションは難しい。

もっとも、単に難しいだけならば良いのだけれど、実際にはミスコミュニケーションが発端となって人間関係の不和を生じさせることもある。それに、やっぱり僕らは人間だから、これまで育ってきた環境の違いなどから根本的に相容れない人というのもいる。たとえば僕の場合、多数決=民主主義と誤解している人とは本質的に「何か」が合わない。そういう人たちは往々にして、「みんながそう思っているから」という論理で物事を強引に推し進めようとするけれど、彼らのいう「みんな」がすべて(総意)であると信じて疑わないその無邪気さは、僕をほんの少しだけ不愉快な気持ちにさせる。

合わないことがわかっているのなら、そっと身を引くというのもひとつの合理的な選択ではないか。「そういう人たちが傷つかないで安全な場所でひっそりと生きてられるのは、ほかのところで傷つくのを引き受けて動いている誰かがいるから」と石川はいうが、傷つく前に身を引く選択をする前者の生き方の方が幾分か賢いように感じてしまう。傷つく関係性にとどまり続ける必要など、これっぽっちもないのだから。

僕はどちらかといえば内向的な人間だから、頻繁に人と会ったり、大勢の人たちと会する環境に身を置き続けると疲弊してしまう。それを自覚しているからこそ、人と会う頻度や環境は調整している。そうした文脈のある部分では、僕も「安全な場所でひっそりと生きて」いる人間なのかもしれない。毎日のように飲み歩いたり、どこにでも顔を出している人を見たりすると純粋にすごいなあと感心する。けれど、すべての人がそうである必要は全くないだろう。

ところで、恋した三束以外の誰とも関わらず、社会と隔絶した場所で生きる入江を哀れんだり、あるいは勝手に病名を与えたりする書評に触れていると、以前に読んだ熊代亨の『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』がふいに思い出された。

かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。

熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』4頁

清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではなかったか。

同4頁以下

たとえばフィジカルでも、メンタルでも、不健康な人(あるいは「ふつう」の枠組みからはみ出してしまった人)にはご親切にも「病名」が与えられ、社会から優しくされる。でも逆に、差し出された「病名」を受け取るのを拒否すると非難され、排除される。路上生活者と福祉の文脈でも同じことがいえる。差し出された福祉支援を受け取れば優しくされ、路上にとどまり続けることを選べば排除される。健全なようで、不健全な現代日本という病理。「孤独だった頃の入江を憐れみ、変わってゆく姿を鼓舞するものが目立」つ『すべて真夜中の恋人たち』の書評は、まさに均一化を指向する今の日本をわかりやすく象徴しているようにも思える。

本人が満たされているならば、その生き方を否定しうる男女はどうして存在しようか。もちろん、私法のいう「公序良俗」に反していない限りにおいて、という留保はつくが。もっと他人と関わった方が良いだとか、そんな生き方は孤独すぎるだとか、大きなお世話だ。最低限の社会とのつながりを確保しながら、気のおけない他者たちとの関わりを深めいく生き方だって悪くない。それもまた選択であり、人生なのだ。

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