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なんとなく寂しかった、ある日の記録

午前11時に起きて、シャワーを浴びる。身支度を整え、4限のゼミに出席するために、家を出た。大学に着いた時、ゼミが始まるまでまだ時間があったから、購買部の書店にふらりと立ち寄った。装着されたApple社製の純正イヤホンからは羊文学の楽曲が流れていた。

著者の五十音順で陳列された文庫コーナーを、”あ”から順にゆっくりと見てゆく。江國香織、小川洋子、恩田陸。知っている作家の名前から順に視界に入ってくる。江國の手前に、石沢麻依の名前を見つける。初めて聞く作家だ。忘却に抗う言語芸術の傑作という帯に惹かれて、『貝に続く場所にて』という彼女の本を手に取った。

イヤホンの向こう側から、反対側の棚(そこには、村上春樹や宮下奈都がいる)に立っているらしい男子学生同士の話し声が聞こえる。「これ、面白いよ」「へえ、買ってみようかな」。なんか、羨ましいなって思う。それから横に視線を向けると、重松清の近くに立つ女子学生の存在を認める。彼女はひとりで、本棚をじっと見つめていた。

なんだか今日は、朝からどうしようもなく寂しい気持ちだった。耳元で歌う塩塚モエカの歌声が僕を情緒的にさせたのかもしれないし、単に今日が寂しい日だったというだけなのかもしれない。僕には時々、どうしようもなく寂しくて、さらさらと溶け落ちてしまいそうになってしまいそうな時がある。それが、今日だった。

羊文学の音楽を聴いていたら、孤独が加速してしまいそうな気がしてイヤホンを外した。石沢の本を買ってから、寒かったけれど、学食でソフトクリームを食べた。本当はバニラ味が食べたかったけれど、ないと言われたから、チョコレート味で我慢した。

ゼミで友人らに会っても、あるいは家に帰ってからも、寂しさは完全には消えなかった。きっと今、センチメンタルな映画を観たら爆泣きしてしまうんだろうなあと思いながら、粛々と湯船に湯をためた。それから、湯船に浸かりながら、小川洋子の『人質の朗読会』を40ページくらい読んだ。僕は多くの場合、湯船に浸かりながら本を読む。

風呂から出ると、寂しさはちょっとだけ顔を引っ込めているようだった。僕は寂しい時、猛烈に本を読みたくなるし、猛烈に文章を書きたくなる。さっき、夜食にわかめラーメンといなり寿司を食べて、いまは麦焼酎の湯割りを飲みながらこの文章を綴っている。言葉を連ねてゆくにつれて、自分が戻ってくる感じがしている。

寂しい夜に文章を綴りながら、自分の空虚感をおいらおいらと埋めてゆく。僕が名無しの書いた文章に救われることがあるように、空虚感を埋める作業の片鱗が、誰かの生きる勇気になっているならば幸せに思う。

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