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【詩の森】共育-共に育つ

共育-共に育つ
 
ハングルへの旅という
エッセイのなかで
詩人の茨木のり子さんが
コンブという韓国語に触れている
漢語では工夫
勉強という意味である
勉強ということばは
字面を見ただけで嫌になるほど
窮屈さを感じさせるが
工夫といえば
どこか解放されたような
自由闊達な響きがある
 
そういえば
教育者の大田堯(たかし)さんも
教え育てるというのは
いかにも上から目線だという
英語のエデュケーションの
本来の意味は
能力を引き出すということ
だから
教育ということばも
共に育つという意味で
共育に変えるべきだと
力説されていた
 
たかがことばというなかれ
僕らが
ことばを使うということは
そのことばに
貼りついている
思考法のようなものまで
無意識に
受け入れることなのだ
ことばが
共同幻想をつくるといってもいい
僕らはだれもが
言葉の囚人でもあるのだ
 
明治五年に
学校制度が創設されたのは
軍隊をつくるためだったと
前川喜平さんがいっていた
読み書きができなければ
武器の使用法すら
覚束ないからだという
むろんそれだけではない
軍隊なら
上官の命令には絶対服従だ
上官とはおそらく
先生のことだったのだろう
 
戦後
戦争を主導したものたちの
公職追放で
民主主義が定着するかに見えたが
わずか五年ほどで
元に戻ってしまった
いわゆる『逆コース』である
A級戦犯がアメリカの都合で
総理になった国である
だからこの国では
いまも本質的には
戦前さながらの教育が行われている
戦前の国定教科書は
検定と名前を変えて
生き延びている
 
僕らはことばで考える
だからことばの虜なのだ
そのことに気づいて
ことば自体を疑わない限り
この国は変ることはないだろう
なぜなら
教育によって
国は日々再生産されるからである
この国が
共育を採用し
勉強ということばを捨て去る日は
果たして来るのだろうか
 
しかし
もし僕らが
遥か昔の神代の歴史よりも
自分が生まれる前の
100年間ほどの歴史を
教科書以外からしっかりと学び直し
知識の棚卸しをするならば
僕らは
ほんとうの歴史に開眼することが
できるだろう
教育が
明治以降奪い続けているのは
僕らひとりひとりの
考える喜びと自立する力
なのではないだろうか
 

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