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【詩の森】言葉の国

言葉の国
 
僕らは
言葉の国に住んでいる
何を今さらと
思うかもしれないが
日本人は日本語を話し
英国人は英語を話す
人と言葉は
分かちがたく
結びついているのだ
Englishといえば
英国人のことでもあるし
英語のことでもある
Japaneseとて
同じだろう
 
だから僕らは
日本語で考える
僕らの考えは
はじめから
否応なく
日本語のもつ世界観に
取り込まれているのだ
僕らは
余程意識しない限り
母国語のもつ世界観から
抜け出すことは
できないだろう
無意識に言葉を
使っているのだから―――
 
日本語が
世界を平和にする
これだけの理由
という本のなかで
僕は初めて
共視という言葉を知った
例えば
山の端に登る朝日を
一緒に見やりながら
「まだこんなに早いんですね」と
互いに確認しあい
どちらからともなく
発する言葉が
「おはよう」なのだという
 
それを
Good morningと比べてみれば
その違いは
一目瞭然だろう
共視とは
並び立って
同じ方向を見るということだ
そして
並び立つことのなかに
共同体の一員としての自覚が
既に息づいている
それを
和のこころと呼んでも
いいかもしれない
 
川端康成の
雪国の書き出しを
英文に翻訳すると
次のようになるらしい
The train came out of the long tunnel
Into snow country.
しかし
日本人の僕らが
雪国を読んだときは
むしろ
車中の人となって
主人公と一緒に
白銀の世界へ入っていく
のではないだろうか
 
俳句とて同じだ
芭蕉さんが
「山路来て何やらゆかしすみれ草」
と詠めば
300年後の僕も
芭蕉さんの傍らで
それを覗き込んでいる
つまり
それが共視である
作者が提示した場面を
作者と同じ立ち位置に立って
時空を超えて共感する
それが
俳句の構造でもあるのだ
 
生まれたときから
共視の構造をもつ日本語に
くるまれて育った僕らは
争いを好まず
むしろ言葉によって
それを避けようとしてきた
のではないだろうか
だから
「こんな人たちに
負けるわけにはいかない」
などと熱り立つ人に従ってはいけない
彼はすでに
和のこころを失くして
いるのだから―――
 

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