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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(8)

著者 二宮俊博

異土での邂逅―菅茶山・頼杏坪・川合春川・梯箕嶺


 菅茶山(延享5年[1748]~文政10年[1827])

 名は晋帥ときのり、字は礼卿。通称は太沖。茶山は、その号。備後神辺の人。東陽より9歳上。
 『福山志料』編纂のため藩侯の命により、文化11年6月5日江戸に入り、翌12年2月末までこの地に滞在していた。茶山にとっては文化元年(1804)以来、十年ぶりの再遊である。詩人として赫々たる名声のあった茶山は東都で歓迎され連日応接に暇がないほど文人墨客と宴遊を重ねていたが、なかでも9月20日、日本橋は百川楼に赴く途上での亀田鵬斎との奇遇は、詩壇の佳話として谷文晁の描くところとなり世間に大いに喧伝された。その茶山とは、前稿「覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ―安永・天明期の京都」で言及したように東陽が京都に居住した時期に一度詩の応酬があったものの、実際に顔を合わせる機会はなかったようである。それがこのたび江戸で巡りあうことになった。東陽の喜びはひとしおであったのだろう、「菅礼卿に邂逅す」と題する作が、五律と七律とでそれぞれ詠まれている。
 そのうち五律(『詩鈔』巻三)には、

  關西老夫子、盛徳却如癡  関西の老夫子、盛徳却って痴の如し
  官納治安策、人驚絶妙辭  官は納む治安の策、人は驚く絶妙の辞
  新知翻恨晩、後晤預為期  新知かへっておそきを恨み、後晤あらかじめ期を
               為す
  共悲遲暮客、且傾金屈巵  共に悲しむ遅暮の客、しばし傾けん金屈巵
◯関西老夫子 〈老夫子〉は、老先生。◯盛徳 孔子が周にゆき老子に礼を問おうとした時、老子のいった言葉に「君子盛徳、容貌愚のごとし」と(『史記』老荘申韓列伝)。◯治安策 前漢の賈誼は文帝に治安策をたてまつった(『漢書』賈誼伝)。◯新知 新しい知己。『楚辞』九歌「少司命」の「楽しみは新たに相知るより楽しきはし」から出る語。晋の陶潜「食を乞ふ」詩に「情に新知の歓しみをよろこび、言詠して遂に詩を賦す」と。◯後晤 これから先、語り合う機会。◯遅暮 人生の暮れつ方。晩年。古くは『楚辞』離騒に見える語。◯金屈巵 晩唐・于武陵の五絶「勧酒」(『唐詩選』巻六)に「君に勧む金屈巵、満酌辞するをもちひず」と。

とあり、第二句は丸顔で一見すると田舎の好々爺じみた茶山の風貌に接してかく評する。七律(『詩鈔』巻五)には、次のように云う。

  久想美人天一方  久しく美人を想ふ天の一方
  西來紫氣接清揚  西来の紫気 清揚に接す
  儒林德望推經世  儒林の徳望 経世を推し
  ➍苑風流占擅塲  藝苑の風流 擅場を占む
  便覺心中消鄙吝  便すなはち覚ゆ心中 鄙吝消え
  徒慙舌本苦乾彊  づ舌本 乾彊に苦しむを
  相留此座眞堪惜  相留りて此の座 真に惜しむに堪ゆ
  珍重好餘三日香  珍重す好く餘す三日の香

◯美人 うるわしき人。君子の喩え。ここでは、茶山を指す。後漢・張衡の「四愁詩四首」(『文選』巻二九)の序に「屈原は美人を以て君子と為す」と。◯天一方 前漢・蘇武の作とされる「詩四首」其四(『文選』巻二十九)に「良友遠く離別し、各々天の一方に在り」と。◯紫気 老子が函谷関にやって来たとき紫色の気が見えたという(『列異伝』)。杜甫の七律「秋興八首」其五に「東来の紫気函関に満つ」と。ちなみに、『書言故事』巻三、訪臨類に「瞻紫気」を挙げ、「朋友の至るを候ふを紫気の来るをると云ふ」として、老子の故事を引く。◯清揚 すずやかな目もと。『詩経』鄭風「野有蔓草」に「美なる一人有り、清揚婉たり。邂逅して相遇はば、我が願ひにかなはん」と。毛伝に「眉目の間の婉然として美しきなり」と。◯儒林徳望 前に挙げた「南川士長を哭す」詩にも「儒林の徳望国家の光」と。◯藝苑 藝文の世界。詩壇。韓愈「復志の賦」(『韓昌黎集』巻一)に「朝に書林に騁騖し兮、夕に藝苑に翔す」と。◯鄙吝 いやしい心ばえ。『世説新語』徳行篇に「周子居(周乗)常に云ふ、吾れ時月(数か月)黄叔度(黄憲)を見ざれば、則ち鄙吝の心、已に復た生ず」と。◯舌下 舌の根。『世説新語』文学篇に「殷仲堪云ふ、三日道徳経を読まざれば、便ち舌下間強す」と。◯乾彊 こわばる。◯三日香 後漢・荀彧じゅんいくはその衣服の香が三日たっても消えなかったという。『襄陽記』(『太平御覽』卷七〇三に引く)に「荀令君、人家に至り、坐する処三日香る」と。

 もっとも、東陽が茶山といつどこで顔を合わせたのかは、はっきりしない。津坂治男氏がその両著において東陽と茶山と出会いを文化11年の9月26日と推定されるのは、おそらく後に挙げる富士川英郎『菅茶山』に、この日の午後に茶山が大窪詩仏の詩聖堂を訪ねた記述が見えることによるのであろう。しかしながら、そこに東陽の名は出て来ない。東陽が津にもどってからの作、五絶「菅太冲に寄す」詩(『詩鈔』巻六)に、

  江山千里別、風月輒思君  江山千里の別れ、風月すなはち君を思ふ
  邂逅今春恨、為歡不十分  邂逅す今春の恨、歓を為すこと十分ならず
◯江山 『南斉書』劉善明伝に「南甸相去ること千里、へだつるに江山を以てす。人生寄するが如し、来会いづれの時ぞ」と。◯風月 清風明月。明・王人鑑の五律「草衣道人の書を得」詩に「朗月輒ち君を思ふ」と。

と詠じられているのを見れば、茶山との出会いは文化十二年春ということになり、しかも残念ながら心ゆくまでじっくり歓談するいとまがなかったことが窺われる。
 ところで、茶山のこのたびの江戸出府中の詩作は、その『黄葉夕陽村舎詩後篇』(文政6年[1823]刊)の巻五・六に収められ、また「東征歴」(「東遊暦」)と題する日記があり、それには当地での文人墨客や儒者との活発な交流が窺われるものの、東陽との応酬の作は見あたらない(但し「東征歴」は未見。富士川英郎『菅茶山』に引くのに拠る)。だが、『後編』巻五には、文政11年8月の作「二十日の夕べ、平井可大招飲す」と題する七古がある。

  曾聞柴子説君賢  かつて柴子 君が賢を説くを聞く
  想慕徒過十餘年  想慕いたづらに過ぐ十餘年
  再遊逢人先相問  再遊 人に逢へば先づ相問ふ
  忽辱敲門驚午眠  忽ち門をたたき午眠を驚かすをかたじけなうす
  鬱其音吐温其貌  鬱たる其の音吐 温たる其の貌
  更見前度所未聞  更に前度未だ聞かざる所を見る
  過從幸在里閈近  過従幸ひにかんの近きに在り
  尤喜中秋同泛船  尤も喜ぶ中秋同じく船をうかべしを
  此日折簡招朋舊  此の日 折簡 朋旧を招く
  符郎行酒君羞鮮  符郎 酒を行ひ 君 鮮をすす
  尊前道故眞樂事  尊前 故をかたる 真の楽事
  獨傷柴子就新阡  独り傷む柴子新阡に就くを
  庭池夜明月未上  庭池夜明にして月未だ上らず
  嗷嗷往雁迷遙天  嗷嗷がうがう 往雁 遥天に迷ふ
  歡時豫惹別時恨  歓時あらかじめ別時の恨を
  呉雲秦樹路三千  呉雲秦樹 路三千
  君在羇絆我衰老  君は羇絆に在り我は衰老
  奈何後期屬茫然  かんせん後期茫然に属するを
◯柴子 柴野栗山を指す。◯鬱 盛んなさま。◯温 和やか。◯前度 前回。◯過従 往き来する。◯里閈 ここでは、町内。〈閈〉は、(町内の)木戸。◯折簡 短い手紙。『古今類書纂要』巻十一、人事部に、この語を挙げ、「朋友をむかふるの書なり」と。◯朋旧 仲間や旧友。◯符郎 可大の子息をいう。おそらくは長子の簡。〈符〉は、中唐の文豪、韓愈の子の名で、五古「符、城南に読書す」詩(『韓昌黎集』巻六、『古文真宝』前集)がある。◯行酒 酒を注いでまわる。◯羞鮮 酒肴を勧める。◯尊前 酒宴の席上。◯道故 友人同士が昔話をする。『史記』滑稽列伝、淳于伝に「し朋友交遊し、久しく相見ず、卒然として相、歓然として故をひ、私情相語る、飲むこと五六斗ばかりにしてただちに酔はん矣」と。◯就新阡 亡くなって間もないことをいう。〈阡〉は、墓道の意。栗山は文化4年(1807)12月に、72歳で卒した。◯嗷嗷 雁の鳴き声。『詩経』小雅「鴻鴈」に「鴻鴈き飛ぶ、哀鳴嗷嗷」と。◯呉雲秦樹 友人と遠く離れていること。またはるか遠くにいる友。杜甫が渭水の北、長安にいて江東の李白を思い出して詠んだ五律「春日李白を憶ふ」詩に「渭北春天の樹、江東日暮の雲」と。◯路三千 晩唐・顧非熊の五排「情を陳べ鄭主司にたてまつる」詩に「秦城春十二、呉苑路三千」と。◯羇絆 束縛されること。宮仕えの身をいう。〈羇〉は、羈と同じ。◯後期 これから先、会う機会。晩唐・方干の五律「沛県司馬丞の任にくを送る」詩に「羇遊故交少なく、遠別後期難し」と。

 10年前、江戸に出てきたおり、今は亡き柴野栗山から澹所が賢明な人物であると聞いて、このたび是非とも会いたいと念じていたという。15日の仲秋にはこの平井澹所それに彼の親友黒沢雪堂と3人で佃口に舟を浮べて名月を愛でていた(『後編』巻五、七律「十五夜、黒澤・平井二子と舟を佃口にうかぶ。……」詩)。そして20日には可大の自宅に招待されたというわけである。ちなみに、茶山の和文随筆『筆のすさび』(安政4年[1857]刊)には、「火煙に取りまかれたる時は、土に顔をあてゝをるべきよし、平井直蔵が話なり」と記した箇所があり、澹所との四方山話の一端が窺える。
 ところが、澹所の幼馴染である東陽はと言えば、先に見たように澹所が東陽のもとを訪ねて来たことはあっても、その自宅に招いたり自分の知友を引き合わせたりしたことを窺わせる作は東陽の側には見あたらないのである。少なくとも遠来の幼友達を家に招待するくらいのことは、当然あってしかるべきだろうと思うのだが、そうした形跡はない。
 さらに茶山は、寛政の三博士のうち柴野栗山・尾藤二洲(文化10年[1813]没)亡きあと今や学界の大立者となっていた幕府儒官の古賀精里と会い詩の応酬をしているのだが、精里とはかつて在京時代に知り合っていて七律「夏夕小倉泖にて古淳風に和す」(『詩鈔』巻四)や七絶「古賀淳風の佐賀に帰るを送る」(『詩鈔』巻七)の作がある東陽が精里と再会を果たした様子は見られない。
 東陽がはなから澹所の家族や交友関係に興味がなく、また面識のある精里に会いたいとも思わなければ話は別だが、もしそうしたことに些かなりとも関心を示していたとすれば、それが叶えられなかったということであろう。おそらくそれは、東陽の都合というより、澹所や精里側の事情によったものではないかと推測されるのである。そこには学派学統の問題が絡んでいるのかも知れない。精里や澹所は純然たる朱子学の人である。これに対して東陽は古学を学び折衷的立場をとる。こうした背景もあったように思われる。そして、そのことが大窪詩仏に対して洩らした「窮し来りて偏《ひとへ》に見る人情の薄きを、老い去きて深く知る世味の酸なるを」という述懐になって表現されているのではなかろうか。

※菅茶山については、前稿に挙げたほかに今関天彭「菅茶山(上)(下)」(「雅友」第30・31号、昭和31年9・12月。『江戸詩人評伝集1』に収録)があり、江戸での事跡は、富士川英郎『菅茶山』下(福武書店、平成2年)の132~152頁に詳しく述べられている。また『筆のすさび』は、日野龍夫氏による校注が新日本古典文学大系『仁斎日札 たわれ草 不尽言 無可有郷』(岩波書店、平成12年)に収められている。
 なお柴野栗山・古賀精里については、前稿に挙げたほかに今関天彭「柴野栗山(上)(下)」(「雅友」第50・51号、昭和35年12月・36年2月。『江戸詩人評伝集1』に収録)がある。また尾藤二洲についても、今関天彭「尾藤二洲(上))(下)」(「雅友」第52・53号、昭和36年4・8月。『江戸詩人評伝集1』に収録)がある。但し、この人と東陽との直接的な関わりは確認できない。

 頼杏坪(宝暦6年[1756]~天保5年[1834])

 名は惟柔、字は千祺。杏坪は、その号。安藝竹原の人。春水の弟。東陽より1歳上。
 『詩鈔』巻九に七絶「頼千祺の安藝に帰るを送る二首」がある。詩の配列および内容からすれば、文化11年秋、東陽が江戸に在って杏坪の帰国を送った作ということになるが、後に挙げる重田定一『頼杏坪先生伝』や木崎好尚『百年記念 頼杏坪先生年譜』には、杏坪が文化11年に江戸に赴いたという記述はない。またこの時期、杏坪とも親しかった菅茶山が在府しているが、この両人が江戸で会ったという形跡は見あたらず、その意味では些か疑問がのこる。

  秋風帰興旅装輕  秋風帰興 旅装軽し
  長路關山片月明  長路関山 片月明らかなり
  五十三亭行盡處  五十三亭 行き尽くす処
  故園猶是半分程  故園 猶ほ是れ半分の程
◯秋風帰興 晋の張翰(字は季鷹)が秋風立つころ故郷である呉中の菰菜・蓴羹・鱸魚のなますを思い出し、官職を捨てて帰郷した故事(『世説新語』識鑒篇、『晋書』文苑伝・張翰伝)。『蒙求』巻下の標題に「張翰適意」がある。◯五十三亭 東海道五十三次。

   其二
  路入山陽泛海安  路は山陽に入って海にうかぶこと安らかに
  凉天風色靜波瀾  凉天の風色 波瀾静かなり
  客舩秋興鱸魚膾  客船の秋興 鱸魚の膾
  擊檝長歌醉裡看  撃檝の長歌 醉裡に看る
◯山陽 山陽道。◯涼天 秋。中唐・韋応物の五絶「秋夜、丘二十二員外に寄す」詩(『唐詩選』巻六)に「君を懷ふは秋夜に属す、散步して涼天に詠ず」と。◯風色 風景、景色。◯擊檝 〈檝〉は、船のかい。◯看 聴く。

 なお、この詩には其二の後に「江戸より広島にいたる二百餘里、路は京畿を経、まさに半程に当たる。大阪り海に浮かび、播及び三備を歴す。即ち山陽道なり」という自注が附されている。

※頼杏坪の伝記については、重田定一『頼杏坪先生伝』(積善館、明治41年)があり、年譜に木崎好尚『百年記念 頼杏坪先生年譜』(山陽会、昭和9年。後に「江戸風雅」第8号、平成25年に再録)がある。またその詩業を論じたものに今関天彭「頼杏坪(上)(下)」(「雅友」第36・37号。昭和37年3・6月。『江戸詩人評伝集1』に収録)がある。

 川合春川(寛延2年[1749]~文政7年[1824])

 名は衡または考衡、字は襄平または丈平。春川はその号。美濃高須の人。京で龍草廬に学び、安永9年、30にして紀州徳川家に仕えた。東陽より8歳上。江戸出府中の茶山と頻繁に交流があったこと、富士川氏の『菅茶山』に見える。

 文化12年の作に五律「川襄平の国に還るを送る」(『詩鈔』巻三)がある。

  博物古君子、詩觀大國風  博物 古の君子、詩は観る大国の風
  新知歡未盡、遠別恨無窮  新知 歓未だ尽くさざるに、遠別 恨み
               窮まり無し
  關樹秋雲外、山程暮雨中  関樹 秋雲の外、山程 暮雨の中
  共憐衰老客、安得重相同  共に憐れむ衰老の客、いづくんぞ重ねて相
               同じうするを得ん
◯博物 博学多識。春秋晋の平公が鄭の子産(公孫僑)の言を聞いて「博物の君子なり」と評した(『左氏伝』昭公元年)。◯大国 ここは五十五万五千石の紀州藩を指す。◯恨無窮 中唐・劉長卿の七律「李録事兄の襄鄧に帰るを送る」詩に「天涯此のれ恨み窮まり無し」と。◯関樹 関所の樹木。◯山程 山あいの街道。◯安得 (実現困難なことに対する)強い願望を表す。なんとか……したい。

自注に「紀藩の侍講。余に長ずること数歳」と。ちなみに、文化10年(1813)に古賀精里および春川の序を附した伊藤海嶠編『南紀風雅集』二巻が刊行されている。

※川合春川については、菊池五山の文化3年(1806)の序を附した『勢遊艸』の影印が『紀行日本漢詩第二集』(汲古書院、平成3年)に収められており、佐野正巳氏の解題参照。『南紀風雅集』は『詞華集日本漢詩第十巻』(汲古書院、昭和59年)に影印を収め、同じく佐野氏の解題に『紀伊国人物誌』の小伝を挙げる。

 梯箕嶺(明和5年[1766]~文政2年[1819])

 名は隆恭、字は季札。箕嶺は、その号。久留米の人。初め江戸に遊学した後、筑前福岡の亀井南冥(名は魯、字は道載。寛保3年[1743]~文化11年[1814])に師事。京に出て三四過ごし、天明8年(1788)藩枝修道館の儒員となった。東陽より9歳下。この人も江戸出府中の茶山と交流があった。
 文化12年の作に五律「梯文学の豊に帰るを送る二首」(『詩鈔』巻三)がある。

  萍水他鄕客、歸期恨悵然  萍水 他郷の客、帰期 恨み悵然たり
  睽離忽明日、會晤更何年  けい 忽ち明日、会晤 更にいずれの年ぞ
  孤月黄山道、長雲紫海天  孤月は山道を黄にして、長雲は海天を紫
               にす
  詩篇時遣興、風便好相傳  詩篇 時に興を遣り、風便あらば好し相
               伝へよ
◯萍水 旅先で偶然出会う。初唐・王勃「滕王閣の序」(『古文真宝』後集)に「萍水相逢ふ、ことごとく是れ他鄕の客」と。◯他郷客 他郷にある身。杜甫の五排「白帝城に上る二首」其一に「酔いを取る他郷の客、相逢ふ故国の人」と。◯悵然 傷み悲しむさま。◯睽離 背き離れる。別離。韓愈・孟郊「納涼聯句」に「子とむかし睽離す」と。◯会晤 顔を合わせて語らう。◯長雲 長くかかる雲。盛唐の王昌齡「從軍行」其四に「青海長雲 雪山を暗くし、孤城遙かに望む玉門関」と。◯遣興 憂さ晴らしをする。杜甫の五律「惜しむ可し」詩に「心を寛くするはまさに是れ酒なるべし、興を遣るは詩に過ぐるし」と。◯風便 順風。晩唐・羅隠の七律「秋日、姑蘇の曹使君に寄する有り」詩に「水寒くして双魚の信を見ず、風便だ聞く五袴のうた」と。ここでは便りの意に用いる。

   其二
  青衿疇昔友、短髪共皤皤  青衿 疇昔ちうせきの友、短髪 共にたり
  相遇論心少、一生分手多  相遇ふも心を論ずること少く、一生手を
               分つこと多し
  雲峰陵鳥道、風浪傍龍渦  雲峰 鳥道をしのぎ、風浪 龍渦に
  望斷天涯別、音塵更若何  望断す天涯の別れ、音塵更に若何いかんせん
◯青衿 書生。『詩経』鄭風「子衿」の「青青たる子の衿」から出た語。◯疇昔 その昔。◯短髪 薄くなった髪。◯皤皤 髪の白いさま。◯論心 胸のうちを語り合う。李白の七古「王十二の寒夜独酌、懐有りに答ふ」詩に「君と心を論じ君が手を握る」と。◯分手 別離する。六朝梁・沈約「范安成に別る」詩(『文選』巻二十)に「生平少年の日、手を分かつも前期を易しとす」と。◯鳥道・龍渦 盛唐・岑参の五古「犍為に赴きて龍閣道を」詩(『岑嘉州詩集』巻三)に「汗流れて鳥道を出、膽碎けて龍渦を窺ふ」と。〈鳥道〉は、鳥の通い路。〈龍渦〉は、深い水淵。◯望断 視界から消えるまでながめる。◯音塵 音信。六朝宋・謝荘「月の賦」(『文選』巻十三)に「美人邁として音塵き、千里を隔てて明月を共にす」と。

 其二に「青衿疇昔の友」と述べていることからすれば、箕嶺とは東陽が京にいた安永・天明期に知り合ったと考えられるが、詳しいことは不明。

*梯箕嶺については、『久留米市誌』下巻(久留米市役所、昭和7年)参照。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(7)
覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(9)

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