ランニングというアート

風は冷たいが、陽も長くなりだんだんと春めいてきた。
巷は中国が発祥の新型ウイルスで右往左往しているが、まあ騒ぎたい奴はどんだときでも騒ぐ。
大事なのは、淡々と日常を過ごすことだ。
それが美しい生活であればなおよろしい。自分もそうありたいものだ。

というわけで、自分なりの美しい生活をまもるためにランニングは継続している。
道内の大会は軒並み中止となっているが、別に大会のために走っているわけじゃない。
大会は楽しいが、それはあくまでもマイルストーン的なものだ。
そこを勘違いしてしまうと、走ることは途端にそのアートフォームを失う。
アートフォームを失ったランニングはただの競争だ。競争は戦争の代替だ。美しくない。
自分の考えているランニングの美の形と対極にある。
ランニングはもっともっと自由であっていい。そしてもっともっと自己のものだ。
集団で走ることは必要ない。(別に否定はしないが)
淡々と自身との対話を行い、時に激しく議論して、そして昨日より少しでも高みにいくための、精神鍛錬の場である。
釈迦がランニングシューズを持っていたら、きっと走っていただろう。

世間を知ることはとても重要だが、それはあくまでも自身の立ち位置がこの社会のどこにあるかを認識するためのGPSに過ぎない。
世間は世間であり、自分は自分である。
社会的動物である人間は社会とのかかわりを失うと生きてはいけないが、その深度はコントロールされてしかるべきだ。
ランニングはその深度の調整弁となりうる。
一日は24時間、それは誰でも変わらない。不変の真理だ。
その24時間中、30分でも1時間でもランニングという行為に費やす。
そのとき、肉体と社会は分離され、自分の脳のメモリは自分ごとにのみ使えるようになる。
たかだが30分、1時間の行為だがこれをやるのとやらないのでは、自分の自分自身への肯定感が全く違う。

自分の脚で立つ。
これがなんの比喩でもなく、実感できるようなる。

こういうご時世だ。だからこそ走ろう。

#ランニング #スポーツ #デフォルトネットワーク #マインドフルネス

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