「論破王」ひろゆきと小島剛一氏とのやりとりにおける、ひろゆきの言論スタイルについて

 最近、少し気になったことがあったので、少し自分の考えを吐き出しておこうと思った。

 その気になったこととは、2021年7月18日時点で今でも現在進行形で行われている、匿名掲示板2ch(現在の5ch)の元管理人で現在はフランス在住の西村博之氏(通称「ひろゆき」。以下、敬称を略して通称で呼ぶ)と、こちらもフランス在住の言語学者の小島剛一氏(自称「F爺」。以下、その自称を敬称略で呼ぶ)との間で交わされているネット上の言い争い(ひろゆきはTwitterで、F爺は自分のブログで発信)である。

 この言い争いの経緯については、下のネットニュースに簡潔にまとめられているので、ここでは詳しく触れない。


 自分が、なぜこの言い争いに関心を持ったかというと、ひろゆきがF爺とのやり取りの中で、F爺のことを、「勉強不足の、若者言葉を知らない高齢者」「不勉強な自称・専門家」という、常識的に考えると非常に失礼な呼び方をしたからである。この言い争いの論点はフランス語であり、フランス在住歴が50年を超え、フランス語が堪能であることがブログの端々から見て取れるF爺に対して言っていい言葉とはとても思えない。ましてひろゆきは、自分ではひたすらに隠しているものの、一連の騒ぎの中でフランス語がほとんどできないことが衆目の下に晒されており、どういう気持ちでF爺に対して「勉強不足」「不勉強」と言い放つことができたのか理解に苦しむ。

 自分は職業的に少しF爺に近いこともあり、上記のひろゆきの言葉遣いはかなり衝撃的であった。フランス語初心者がフランス語熟練者に対して「勉強不足」と言い放つのは、自分の想像できる中傷のラインをかなり超えていて、何がどうなってこういう発言が生まれたのか知りたく、両者の言い争いを、深い興味を持って追い出した。そうした中で、自分はそれまでひろゆきの人となりについてほとんど知らなかったが、彼がかなり問題のある人物だということがわかってきた。それと同時に、今回の言い争いにおけるひろゆきの醜態の原因は、彼の性格に難があるということだけでなく、彼の言論スタイルにも一因があるのではないかと思うようになった。個人的な感想だが、ひろゆきの言論スタイルは、彼がこれまでの時間の多くを費やしてきた、匿名掲示板における、いわゆるレスバ(レスポンス・バトルの略)に大きく影響を受けているように感じられ、傍目からは理解しがたい彼の言動も、その観点から見ると多少説明がつくように思う。以下にひろゆきの言論スタイルの特徴を見ていきたい。

1)論理的整合性の軽視

 匿名掲示板におけるレスバの特徴の一つは、過去の自分の発言との論理的整合性をあまり気にしなくていいことである。これは、一つの「議論」(といっても、実社会の議論とは大きく異なるので、括弧つきでそう呼ぶが)の中における発言の整合性だけにとどまらず、過去の「議論」でした発言にも当て嵌まる。これも考えれば当然の話で、発言者が匿名なのだから、支離滅裂な議論構成であったとしても、それが同一人のものであると特定できない。これを利用して、次々と論点を変えることによって、相手をうんざりさせるということが匿名掲示板のレスバではよく起こる。F爺がひろゆきのことを、「頻繁に議題のすり替えを試み」ると批判したのも、もしかしたら、ひろゆきにレスバのときの習性が残っていることと関係しているかもしれない。

2)「議論」参加者の知的バックグラウンドの無効化

 実社会における議論においては、特に専門的なことが議論になる際には、お互いの知的バックグラウンドが議論の進め方に影響を与える。たとえば、議論の参加者がある知識を共有している場合、そのことについては深く掘り下げず、その知識があることを前提として議論が行われる。これは、経済学者が経済問題について議論するとき、経済学の教科書的知識は議論の前提となることを考えればわかりやすいと思う。

 また、実社会における議論においては、知的バックグラウンドがあまりにも違う場合、議論が円滑に進まないため、そもそも議論に参加させてもらえないということも起こり得る。しかし、そのようなことは、匿名掲示板のレスバでは起きない。誰でも「議論」に参加できるという意味では、一見民主的なようにも思えるが、逆に制約もある。自分の知的バックグラウンドを仄めかすことや、相手の知的バックグラウンドを詮索することはレスバでは基本的に行われず、「議論」は双方の知的バックグラウンドから切り離されたところで進められる。「議論」参加者の知的バックグラウンドについての情報は、「議論」の進行のある意味妨げになるので、レスバで触れられることはない。

 以上のことと、ひろゆきがF爺のことを頑なに「ブログの人」と呼ぶことは相関しているように思われる。これまで、ひろゆきはF爺の知的バックグラウンドについてあまり興味を示さず、特に彼のフランス語知識については全く知ろうともしていない様子である。F爺のことをフランス語学者と誤認しているのも、ただ単に興味がないことの現われであるともとれる。一方で面白いのは、F爺が50年以上フランスに住んでいる高齢者であることは把握しており、その事実を「議論」に積極的に援用しようとしていることである。そのことをとらえてF爺は、ひろゆきは「人格攻撃を好み」「高齢者差別を(する)」と形容したが、このことは、「議論」を有利に進めるための手段として、知的バックグラウンドを引き合いに出すことは効果が見込めないという匿名掲示板の作法にならって、もっぱら他の側面をあげつらうことにひろゆきが集中した結果といえなくもない。

 また、ひろゆきは自身のフランス語知識について頑なに言及しようとしない。フランス語知識はひろゆきとF爺との言い争いにおいて決定的な要素であり、それを隠すのはフェアでないと傍目には思えるが、これもレスバにおける習慣をひろゆきが守っているからだと考えれば、理解できなくもない。こうして見ると、F爺がひろゆきを非難して言った、「自分が無知なくせに」「他者を「勉強不足」呼ばわり(する)」姿勢は、自身及び相手の知的バックグラウンドを完全に無視する、匿名掲示板のレスバにおいて養われたもののように思える。

3)「議論」の正当性を保証する材料の乏しさ

 前項で述べたことと重なるが、匿名掲示板のレスバにおいては、「議論」が正しいかどうかを担保するのに、「議論」参加者の知的バックグラウンドは意味がなさない。実社会の議論においては、その分野において権威的意見を持っている人が議論を有利に進められるということが往々にしてあるが、レスバにおいてはそういうことはない。

 また、「議論」の正当性が、それまでの発言の積み重ねによって保証されるということもないので、レスバにおいて正しさを主張する手段というのは非常に限られている。実社会の議論においては、発言が首尾一貫しているかどうかということは、その議論が正しいかどうかを判断する重要な要素であるが、第一項で述べたように、匿名掲示板のレスバにおいては、そもそも発言の整合性自体に意味がない。

 さらに、「議論」の参加者が、個人の体験を持ち出して自らの「議論」の補強をするというのも、その体験が実際のものなのか検証することがそもそも出来ないため、匿名掲示板のレスバでは有効ではない。F爺との言い争いで焦点となっている"putain"という単語の使い方について、ひろゆきがその単語にまつわる自分の経験を全く語らないのは、単に経験がないからなのかもしれないが、もしかしたら自分の経験を持ち出しても「議論」の補強にならないという、彼なりの自己規制なのかもしれない。しかし、本来の問題は、上でも言ったように、"putain"を始めとする言葉が、実際の日常生活でどのように使われているかということであり、ひろゆきがいくら"putain"の辞書の定義を力説しても、それは本来の問題と乖離している。F爺が、ひろゆきは「何が人種差別なのかも知らず」「自分が差別されていることにも気が付」いていないと非難したのも、その乖離に起因しているように思われる。

 このように、「議論」の正当性を主張する手段が限られている匿名掲示板のレスバにおいて、正しさを担保するものを大きく言って二つある。一つは、一つの発言が、それ自体として矛盾を含んでいないこと。逆に言えば、相手の一つの発言の中に少しでも瑕疵があれば、匿名掲示板のレスバでは徹底的にそこを攻撃する。いわゆる「揚げ足取り」である。その際、他の発言やその発言がされた背景を見れば、発言の意味が変わってくるということは一切考慮されない。例えば、F爺が"putain"の使い方について具体的に触れなくても、彼の経歴を考えれば知っていないはずがないという背景情報は、ひろゆきにとっては全く無縁のものである。

 ここで面白いのは、ひろゆきとF爺の言い争いにおいて、ひろゆきの方に理があると本気で思っている人が少なからずいることである。そういう人たちは、普段から発言を追って物事の真偽を判断するという習慣がないのだろうが、たしかにひろゆきは、発言間の整合性は全くとれていないが、一つの発言内で矛盾を犯すことは少ない。知的訓練を受けていない人が、ひろゆきの言うことにいわば騙されるのも仕方がないのかもしれない。

 匿名掲示板のレスバで「議論」の正当性を主張するために利用する二つ目のものはweb上の情報である。なぜかというと、論証の正しさを証明するものは、レスバの参加者双方がアクセスできるものでなければならず、必然的にそれはweb上にあるものに限られるからである。F爺が揶揄した「映画を観る時には悪罵の出現回数を指折り数えることに集中(する)」という、ひろゆきの一見馬鹿げた行動も、実は、web上にある情報のみで自分の「議論」の正しさを証明しようとするレスバの流儀に忠実なだけだったとも捉えられる。

4)ギャラリー(ジャッジ)の不在

 匿名掲示板のレスバにおいては、当然ながらそのレスバの経過を追っている第三者も匿名であり、「議論」における論証の真偽を判定する際には全く力を持たない。また、レスバそのものに第三者が影響を与えるのも限定的である。いわゆる「横レス」と呼ばれる形でレスバに新しい視点がもたらされることはあるが、それがレスバの結果を左右することはあまりないといえる。

 ただ、今回のひろゆきとF爺との間の言い争いは、SNS上(ブログも広い意味でのSNSだとして)で行われたこともあり、匿名でないギャラリーが集まることとなった。当然、その人たちは二人の言い争いについて、それぞれの意見をSNS上で言い、お互いに意見交換もはじめ、二人に助言を行い、どちらに分があるか感想を言い合い、いわばジャッジの役割を担おうとしている(Twitterのアンケート機能は、ジャッジを可視化する上で非常に有効で、90パーセント以上の人がひろゆきに分がないと判定している)。この状況にひろゆきが苛立って、問題の真偽を判定できるのはフランス人だけであって、自分に間違いはないと言い張っているのは、非常に興味深い。確かに、レスバにおいては、最終的な判定と言うものは存在せず、極言すれば、相手のことを「頭が悪い」「勉強不足」と決め付けることによって、精神的満足を得ることがレスバの目的といってもいい。それに慣れたひろゆきが、今回自分に不利な判定を下されて戸惑っているのも、理解できないこともない。

 ただ、もう一つ興味深いのは「野次馬」の存在である。議論を最初から追う気力のない人、あるいは難しい議論を理解する能力のない人(残念ながら世の中には議論が複雑だと頭がついていかない人がかなりの割合でいる)が面白半分で勝手にジャッジに参加し、話をややこしくしている。そういう人たちが、同じような知的レベルで話すひろゆきの方に共感して彼の方に分があると誤解するのは、半分面白くはあるが、半分恐い現象である。

5)まとめ

 以上、ひろゆきの言論スタイルを、匿名掲示板のレスバの行動パターンから理解できないものだろうかと考察を試みてきた。結論としては、その方向で、かなり説得力のある説明ができるように思うが、そのことと、ひろゆきが今回の言い争いでとっている振る舞いが正当化できるかという問題は別問題である。個人的な意見としては、ネット上の議論は、実社会で行われる議論の形に近づくべきだと思っており、ひろゆきの言論姿勢は実社会では到底許容されるべきものでないので、誤りを率直に認めるべきだと思う。

 そもそも匿名掲示板というのは、議論を交わす場としては不完全きわまるもので、そのことは現在、特にアメリカで匿名掲示板がヘイトクライムを犯す人たちの温床となっていることによって十分に証明されているように思う。したがって、ネット上での議論は、一刻も早く、実社会における議論と似たような形の議論を行えるSNS上での議論に移行するべきだというのが自分の個人的な信念である。今回の言い争いにおけるひろゆきの醜態が、匿名掲示板のレスバに影響された言論スタイルがいかに醜悪なものであるかを人々にわからせ、議論の主体が実社会での人格に紐付けられた、SNS上での言論スタイルに慣れていくきっかけになってほしいというのが個人的な希望である。


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