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元だんなさんのおじさん

元だんなさんのおじさんが亡くなった。元だんなさんから訃報を受けて、私は家でひとり、泣いた。

おじさんとは、決して親しかったわけじゃないし、多くを語る仲だったわけでもない。離婚した元だんなさんの親戚のおじさんに対して、そこまで感傷的になるなんておかしいと後ろ指を指されるかもしない。それでも、私にとっておじさんは今まで出会った大人たちの中でも抜群に「人格者」だった。

今日は、おじさんへのお悔やみと共に、そんなおじさんの話をさせてください。

私から見たおじさん

おじさんの第一印象は、なんだか適当でフランクなおっちゃん。大型トラックの運転手をしていた。

結婚当時、田舎に帰省すると、ほぼ必ず家にいて出迎えてくれた。おじさんを見ていると、社会性だとか常識だとか、そういう窮屈な固定概念から解放されるような感覚があって、当時の自分の感覚にはなかった「心の自由さ」を見ているような気がした。

当時22歳そこそこで授かり婚をした新米妻の私は、相手方の田舎へ帰省するとなれば毎回緊張していたのだが、おじさんのそのフランクさと適当加減に、実はいつもひっそり救われていた。

当時の私は、帰省をしたら奥さんは率先して家事をしなきゃいけないとか、愛想よくコミュニケーションをとらなきゃいけないとか、何となく漠然とした「理想の奥さん、お母さん像」に何とか自分を落とし込めようとしていて、大袈裟に言えば、❛帰省=今の自分とは違う人間を演じなきゃいけない❜という緊張感があった。誰かに強要されたわけでもなく、「何となくそういうものだ」と思い込んでいた。

そんな人生観に囚われていた当時の私は、おじさんの魅力に何となく気付きつつも流し流ししていた。ただ、おじさんのその心の自由さに、憧れるような、何だか無性にワクワクするような感覚があったことだけは残っている。

おじさんと出会った当時の私

あの頃、なぜ無性にもおじさんの自由さに惹かれたのかと言えば、恐らくあの頃の私の心には、自由さがなかったからだ。

先に述べたとおり、当時の私は、若いなりに「奥さんとして、妻としての役目を卒なくこなさなきゃいけない」という概念に囚われていて、自分の思いで率先して動くというよりも、「理想の型だからやる」という感じだった。今思えば、自分の見え方を無性に気にしていたのだろう。

私の母は、私が子どもだった頃、母として奥さんとしての役目を完璧にこなしていた。家に親戚一同が集まれば、総勢20人分くらいのきれいに盛り付けられたご馳走をテーブルに並べ、宴会が始まってもせかせかと台所と居間を行き来し、お酒やご馳走を次から次に運び、誰かに「いいから座って喋りましょう」と呼ばれれば、愛想よく談話し、締めにはデザートまで出し、そろそろお暇となればちゃっちゃっと片付け始めた。今思い返しても、ぐうの音も出ないぐらいの❛完璧な奥さん❜だった。

結婚したら母のようにならなきゃいけないものだと思い込んでいた私は、結婚したその瞬間から、自ら鎧をかぶっていたのだ。

おじさんのやさしい適当さ

おじさんの底知れない適当さには、不思議ときつく締め付けられていた私の鎧をゆるませる力があった。それでも、「ちゃんとしなきゃいけない」という概念に囚われていた当時の私は、鎧がゆるんでは締めて、ゆるんでは締め直しての繰り返しで、頑なに完全には外そうとはしていなかった。

出会った時から魂では気付いていたはずのおじさんの不思議な魅力。それを表層心理で認識するようになったのは、元だんなさんと離婚してから=鎧をかぶっていたことに気付き、自ら鎧を外し始めてからだ。

離婚してからも、私と元だんなさんとの交流は、子育てを通じて今も続いている。元だんなさんの家族との交流も続いている。私は、今の新たな自分の家族のカタチにしっくりきているし、何よりも子どもたちや元だんなさん、元だんなさんのご両親との向き合い方は、離婚する前よりも格段に良くなっている。

一方で、こういう家族のカタチを人に話せば、理解できない人も到底いる。ドン引きする人もいる。「理解されなくても自分なりに周りを大切にしていけばいい」と思いつつも、やるせなくなる時もある。

一年前、元だんなさんのおじいちゃんのお通夜に参列した時、離婚して以来、初めておじさんと会った。なんとなく私たちの事情を知っているおじさんは、いつもと変わらない適当な感じで、「(来てくれて)ありがとうな」と出迎えてくれた。終始、何かを聞くわけでも、諭すわけでもなく、ごく自然に、いつもの適当なおじさんでいてくれた。

なんて深い人なんだろう。その時、ハッキリとそう思った。

おじさんの繊細さ、優しさ、強い芯、そして海のように深い慈愛を感じずにはいられなかった。

おじさんみたいな人間になりたい

おじさんは、自宅でひとりで息を引き取ったと聞いた。涙が止まらなかった。でも、なんとなくそれもおじさんらしいとも思った。最期まで、おじさんは自分の強さや優しさを見せびらかすことなく自分の胸にしまい込んで、粛々と生き抜いたんだ。

おじさんへ。

必然だったのか偶然だったのか、私は、あなたと出会い、「心の自由さの魅力」に気付かされていきました。あなたの人に気遣いをさせないための適当な振る舞いに、何度も救われました。あなたの真の優しさと強さを、私は決して忘れません。

心からおじさんを尊敬します。

偉大すぎて同じようになれるかはわからないけど、時間がかかってしまうかもしれないけど、私もおじさんのように、人に気を遣わせず、見返りを求めない真の優しさと深い慈愛を持てる人間になりたいと思います。

おじさん、今まで本当にありがとうございました。


#自分にとって大切なこと

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