網棚の手袋
十月最後の土曜日、下北沢に出かけた。片手で数えるほどしか降りたことがない場所だ。乗り慣れない電車なので座らず吊革につかまる。
ふと網棚に目をやると男物の革の手袋が一組置いてあった。
前の座席にいる男性は次の駅に着くと同時に席を立ったが網棚には目もくれずに下車していった。ドアに寄りかかっていた人はと見るとそちらも下車していた。
時刻は正午。その日は台風がやってくる前日で例年より肌寒いと天気予報で言ってはいたが手袋をするほど気温は低くない。
手袋から目が離せないでいた。
いったいこの忘れ物の持ち主はどんな人であろうか?この時期に革の手袋をするというのは、電車に乗る前にバイクで最寄り駅まで来たのではないだろうか?
そして電車に飛び乗ったと同時に網棚に手袋を乗せてそのまま本でも読みだし忘れたのではないだろうか?
それとも早朝仕事で乗った電車の網棚に手袋を置いて前の席が空いたので座ってそのまま眠ってしまい乗り過ごしそうになり慌てて下車し忘れたのでなかったか?手袋は今朝から何往復も駅から駅へと移動している。そんな風に思えた。
指先が擦れ、色あせている。だが革の手袋は丁寧に重ねられ網棚に乗っている。持ち主にとっては大切なものではなかったか。
乗り換える時持って下車すべきだろうか。駅員に渡せばその駅でしばし保管してくれることだろう。だが手袋の主にとり、私の降りる駅は縁がないかもしれない。
手袋を他の誰かが持って行くだろうか、と考えてみると終日網棚の上という気がした。ならばしばし、電車の旅をして貰う方がいいのではなかろうか?手袋は落し物保管所に届くだろう。下手なところで渡すよりその方がいい。
当たり前にあると思っているものと突然の別れをすると、一度離れたものと再び会えるということは奇跡のようなことだと気がつく。
これは物でなく生きているものとの関係でも同じだ。
大切にしているものとの別れほど喪失感は深い。しかし嘆いてばかりいても何も始まらない。別れたものとは交わっていた人生のレールが変わったに過ぎない。そのものを忘れることがなければ私たちはいつでもこころの中で出会うことができる。
それを知りながら、大切なものほど探さずにはいられない。それはすぐに進むべきレールが変わったことに気がつかないから。受け容れられないから。
網棚を眺めながら願う。黙って諦める前に落とし主が手袋を探してくれることを。手袋が保管所に届くことを。諦めなければレールが交差しているかもしれないから。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!