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私たちはきっと、誰もが何かしらの望みを抱えている。

自分の未来の為に今出来ることは何か?

私たちはきっと誰もが何かしらの望みを抱えている。

それは漠然としていてもいい。

最初からしっかりとしたかたちがあって実現に向かうってことができれば早道だけどみんながみんなしっかりとしたかたちを持っているとは限らない。

でも何かしらの夢や希望ってものがあるなら、それに向かってどんな行動をしていくか。

夢や希望がこちらに向かってくるなんてことがないことを私たちはみんな知っている。

それじゃ、夢が夢のまま終わるのと、実現していく軌道に乗って行くことの差はいったいどこにあるのだろうか?

それは直ぐに諦めないこと。

簡単に言ってしまえるシンプルな行動を続けることはとても難しい。

かく言う私だって同じだ。

私はエッセイを習いに通っていた。今はその先生の講座を受講するには通信でしか出来ない。しかも多忙を理由に作品を全く書けないでいる。

ブログは書けるのにエッセイの作品を書けないとは何事か?というところだろう。

私にとってエッセイの方がそれだけ敷居が高いということ。

自分でこうしてブログ記事を更新することは容易い。容易いことばかりしている私は努力している言えない。

何かを成し遂げたい時、簡単な方に流れてしまって行動に移せないということは怠惰だと言わざる得ない。

いつまでも

○○になりたい。

で終わる。

「なる」と「なりたい」は大きく違う。

実現していくために必要なことが何か考え自分の行動を修正して行くことができるか、自己満足で終わる、その差にかかっている。

自己啓発本というものを信用していない私は読まない。

だけど以前、そう言うものを書かないとだめだと言われたことがある。

エッセイって誰が読むと思う?それはその書き手のファンだ。

無名の誰かが書いたものなんて誰か読む?ましてお金をかけて。

編集を生業にする人が言う言葉にきちんと耳を傾けなかった。

私は自分の文章力が読むに値するのだろうか?と思いみせたのだが、そんなものは二の次だったらしい。

SNSでも知られることがない、ごく普通の人のものなんて誰が読むのか?

だからこの時もっとアピールできる何かのある人になればよかったのだ。

自己アピールが出来てもっと宣伝をできる人になれば、興味を示して文章を読む人が出てくる。発言に耳を傾ける人が出てくる。

例えば自分のしていることがメジャー路線から外れていたって、その主張することが一部のコアな人たちに届けばいいのだ。

その為にはみつけて貰えるくらい自分を宣伝していかないとならない。

自分を晒していくことを嫌っていては結局いつまでたっても夢のまま。

エッセイの先生には

まだ見ぬ読者のことを思って書く。

そう言われた。自分の書きたいことを書きたい様に書くのがエッセイだし、細かな決まりがあってもかなりの個性があり、誰にでも書けるもの。

簡単だからこそ、読まれる文章を書くために自己満足でいてはならない。

だからといって文章はターゲットがあってこそ書けるもの。

仲良くなれるだろう人がどこかでこの文章を読んでくれている。だから読者が混乱する様な書き方や置いてけぼりになる様な書き方をしてはダメ。

読んで何かしら思うところがあるものを書かないとならない。

偉そうなことじゃなくていいし、たわいのないことだっていい。でもまた来てもいいかと思わせる何かを置いておかないとならない。

それがその人の個性なんだろうけれど。

それを日々積み重ねていく。時間がかかるから途中で頓挫してしまうけれど継続できる人がきっと十年後に結果をだせる人なんだと私は思う。

そして私もそうありたいと思っている。

行動を起こして行こう。日々内容のあることを書き続けることは大変。しかも文字数を稼ぐとなるとそれだけ時間を費やさないと書くことは難しい。

それでも十年後の自分の為に積み重ねていかないと、と今更ながら書いてみる。



まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!