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働き方とは

先日、随筆家の山本ふみ子先生と 働き方研究家の西村佳哲(にしむらよしあき)さんの対談を見に行きました。

働き方研究家って肩書き、一体どんな話をされるのか?楽しみでした。

働き方と言うよりも「日々の在り方」をお話してくださった部分が良かった。

「肝力(たんりょく)」ということば。

何かをするときにお腹に力をいれる。しっかりとさせないとならない部分。

私は瞑想をするのだけど、上から順番に浄化していく中で、丹田部分も浄化していかないとならない。

丹田の浄化は自分という軸をしっかりさせるのにとても大切な部分です。

同じでお腹に力を入れることは大切なこと。自分の中でぐらつかないために。

次に本当にそうだと思ったのは、今目の前にあることにきちんと取り組むと言うこと。

山本先生はそれを

「なりゆきでここまで来た」

というニュアンスな言い方をしていたけれど、「なりゆき」といえば他力な様に聞こえるが、自分の人生をどう受け取って行くかということをこの言葉で表現した。

それは決して他力ではない。

今こうしてここにいることは、過去の自分がしてきた結果でそれを受け容れてどう進んでいくか。

それが目の前に置かれたものを受け取るということ。

『「なりゆき」上受け取ることになった』という「なりゆき」なのだ。

嫌なこともいいことも同じ必死さで取り組む。
目の前にあることってそのまま流されているように見えて、何事もきちんと自分で責任を持って受け入れていかないと不満が出る(不満がでた瞬間他力になっていることに気がつく)。
受け入れられないことも考えるより行動をする。この際自分の好む、好まないは関係ない。

好む好まないという感情論を展開していくと結局ネガティブな発想になっていきます。

嫌なものは排除したり、逃げたり棚上げしたり。それは解決にはならない。

好きだからやりたいと思うものと同じく苦手な物に取り組んで行ければきっといつの間にか苦手でなくなる。少なくとも出来ないと逃げることはしなくなる。そうしていると人生は変わってくる。

そういうことを言っているのかと思った。

西村さんは山本先生の文章を、家事のシーンが秀逸だと言っていた。

たしかに先生の家事のお話は共感を呼び、目に浮かぶように生き生きと書かれている。

それはなぜか?

目に見えるものが他と違うから。そう西村さんはいう。

山本先生はやっかいなことも面白がる天才だと思っている。そしてその面白がっているやっかいごとのことを文章に残す。よんだこちらはあぁ、そんな気づきがあったのかと驚く。

多分山本先生は読者を驚かせるのが好きなのだろう。

どんな大変事も、辛いこともそのまま書かないでユーモアに塗すことで読者の共感を得る。

何を見てどう感じるか?きちんと物事を受信してそれに付き合うのだと言っていた。どの人にもその人なりの文章のスタイルがあり、生き生きと書ける何かがある。

それが掴めると私の文章でも変わってくるのだろうか?と聞いていて思った(まぁ私じゃおこがましいですが)。

文章は読んでいてリズムの良いものを。原液でなく薄めた文章を書く。読者のことを考えて書く。そう言っていた。

私の文章は原液の墨の様なところがあるのではないだろうか?と思ったりする。もっと薄めた文章をさらりと書けるようになれたなら。
かといって、市販の墨汁の様では面白くないしな。

さらりと書くためには自分の感情におぼれてはダメだろう。もっと俯瞰できる自分の視線が欲しい。

西村さんが対談の中で仕事について言っていた印象的なことばがある。

仕事は自分の内側にはない。自分と他人の間にある。

仕事は人が教えてくれる。


自分の仕事を生きるということ。

それは知名度でもお金でもない。自分を生かす仕事をするということ。

自分を生かす仕事。それが今の職業か?と言えば嘘になるだろう。

それともこれからそうなっていかないとならないのかもしれない。

齢(よわい)50ちょいにして惑う、地でやってんなと思ったりする。相変わらず結構残念な私だ。

でもそんな私も悪くない。



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