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西 加奈子 『くもをさがす』 を読んで

西 加奈子さんの「くもをさがす」を読んだ。読んでいる途中、感じたことを形にして残さないといけないという気持ちになった。どれだけ取り除こうとしても、生きることや死ぬことは常に自分のあたまの中で大きな部分を占めている。

西さんの小説をはじめて読んだのは「i」だった。他には「サラバ!」や「夜が明ける」を読んだ。人間の深いところ、核となる部分の感情への洞察が鋭い印象がある。

その西さんが新刊を出したらしい。書店で”初のノンフィクション”という言葉がパッと目に付いた。黄色い表紙の雰囲気の柔らかさからほのぼのとしたエッセイなのかなと勘違いしてしまった。本の近くに寄ると「カナダでガンになった」と書いてあった。衝撃的だった。

読み始めていくつかの場面で泣きそうになった。いやもしかしたら泣いていたのかもしれない。でもその涙は何に対する感情なのだろうかと考えてしまった。僕は何に対して悲しいと思っているのだろう。

少し俯瞰で冷めて自分を見ているもうひとりの自分がいる。もし西さんの立場だったら?ということになのか、ガン=かわいそうだという先入観みたいなものが備わってしまっているのか。はたまた心のどこかでガンはどこか他人事の出来事で自分はかからないだろうとたかを括っているのかもしれない。だれしもに可能性はあるにもかかわらず。もしかしたら既にかかってしまっている可能性もあるのに。

乳がんだと宣告されたとき、西さんは「まさか私が」と思ったそうだ。それが最終的に「どうして私が」に変わっていったことも明かしていた。「どうして私にばかり、こんなことが起こるのか。私が一体、何をしたというのか。」というフレーズにも息が詰まりそうになった。

いつか僕も大きな病気にかかるのかもしれない。職業柄しばらく運動ができない大きな怪我をしてしまう可能性もある。そのとき僕はどう振る舞うのか。どう振る舞えるのだろうか。強く振る舞えなくてもいいから恐れてもいいから、自分と向き合えるだろうか。逃げ出したり投げ出したりしそうで不安で仕方がない。

ガンの治療中、西さんは「読むこと」が自分にとって必要な行為であったと語っていた。困難と向き合うという意味で、一般的な人にも当てはまる一つのヒントになり得る気がした。

文章の途中に治療中に読んだ本や音楽の歌詞から引用される場面が多く登場する。普通こういった引用はチープになりがちだが西さんの場合は違う。言葉がその状況で西さんを確実に救ったり支えたことが伝わってくる。鮮明度と暖かさをもって。

本を読むことや音楽を聴くことは物理的には誰も救えない。小説を読むことは何の役にも立たないと揶揄する人もいる。でもこの本を読んでみて、人生においての必需品になりうることを再確認した。だから僕はこれからも本を読むだろうし、それがいつか僕を支えてくれる日が来るだろうと確信することができる。

読むこと聴くことだけではなく「書くこと」についても触れられていた。「文章を書くことは、そしてそれを発表することは、大海に小石を投げるようなことだと、尊敬する作家が言っていた。ささいな音だ、小さな波紋だ、でも、自分の持っている全てを投げるのだと」。

最近また文章が書けるようになってnoteを更新できるようになった。同時に、書くことに何の意味があるのだろうと思ってしまう時があった。でも小石を投げ続けていいんだと心が軽くなった。読むこと、書くことは今後も続けたい。それがどんな小さな波しかたてないとしても。



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