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「24時間走る抜ける物理」~在宅勤務がつらい中間管理職の呟き

 東京のコロナ感染者数が再燃して、再び在宅勤務となった。80平米の自宅にて働く妻と娘2人の我が家では、筆者はトイレ以外身の置き所がない。この間の自粛期間の居心地の悪さを思い出し、己の少々薄くなった髪を不憫に思いつつそっと頭を抱えた。

 リモート会議は何とも手厳しい。俺の話がつまらないと部下は容赦なくミュートを掛ける。掛けていなければ安心、と思っていた矢先、同期から部下が画面に映らない所であつ森?とかいうゲーム部下がしているのを知り、意気消沈していた。

 なんともしんどい世の中になったものだ。つぶしの利く経済学部に入り、出来のいい妻を得てイクメンを気取り産休を取得したら、総務に回された。こんなことなら初めから志望の理系に行けばよかったのだ。

 顔出しが義務の定例事項を確認するだけの虚しい会議が終わり、肩で息をする。もう駄目だ。またあのYouTubeに救いを求めよう。そう、それは「24時間走り抜ける物理」。コロナ禍が始まったばかりの3月下旬、筆者は深夜、家族が寝静まった隙をみて視聴した。

 ~「24時間ではしりぬける物理」は「コロナウイルスに人類の知の欲求は負けない」をテーマに行われる、社会貢献を目的とした教育エンターテインメントです。昨今のコロナウイルスの影響により(中略)......小林 准教授の持つ高いパフォーマンススキルで、高校で習う物理全分野を24時間連続で講義を行います。この前代未聞のチャレンジによって皆様の知的好奇心を駆り立て、学問の楽しさや学ぶことの喜びをお届けします!~

 大学教授が板書する、という昭和感丸出しの発信形態はパフォーマンススキルと表現するしかないであろう。しかしながら、パワーポイントで作成された中身のないプレゼンにいささか食傷気味であった筆者には、心地よかった。そうだ、大切なのは手段ではない、中身だ!

 小林教授の講義はなんといっても分かりやすい。決して研究者にありがちな自己完結した講義ではない。ある時は波を表現するために飛び跳ねたり、と受講者の脳に伝達しようと必死である。こちらも分からねば、と熱くなった。なんでも塾講師を9年して大学・大学院生活費を稼いでいたらしい。やはり資本の原理が利くところで活動した男は違う。俺も営業に戻りたい。。

 リアルタイム配信中はチャットで一緒に見ている受講者と教え合ったり味わい深い時間を共有した。これが、若かりし頃を思い出せる。分野は違えど大学ゼミ時代、仲間と夜を徹して議論したのを思い出す。

 古いアルバムをめくるような密やかな喜びを持ちつつ講義のアーカイブを眺めた。未読が大分溜まっており、ラジオとやらも出来たようだ。疲れた脳にはここから始めてみよう。軽くクリックして聞いてみると、小林ゼミに所属しているマスター2年の太田君との対談のようだ。先生を敬慕し、女房役に徹したかと思うと、ラジオでは熱くも冷静に(小林先生は少々暑苦しい、それも持ち味だが)議論を進めていく。ああ、こんな部下が欲しい。

 そんなことを考えながら聞いていたら、背後に不穏な影を覚えた。恐る恐る振り返ると......妻だった。

 「私、コロナ期間にMBAコース履修するって言ったわよね?遊びで見るんだったら、8年前に買ったノートブックで充分じゃない?」妻は腰に手を当て仁王立ちで見下ろす。

 「いや、娘の子供の教育の為と」こんなこともあろうかと”実は深い実験”シリーズのシャボン玉の映像に素早く切り替えその場をしのいだ。

 妻に最小原理の法則を説明......するのを遮り妻は映像を凝視した。な、この先生わかりやすいんだよ、これからはリケジョが......という俺の話をスルーしている。

 「いいわね、この先生。貴方と同い年なのにお腹も出ていない。うん、下の子にいいかも」口元に中途半端な笑みを残して俺は立ち上がった。また俺の聖域がなくなっていく。

 もう、いいのだ。寝室の奥にしまったノートパソコンを引っ張り出し車の中で視聴する事にした。”電磁気学はマクスウェルの方程式を発見した際、長く携わっていたものが変化するのに触れる喜びが沸き上がった”という話が心の琴線に触れ、心の平安を取り戻し、ギアを入れ、冷房を強すぎないよう弱めて下の娘のお迎えへと向かった。

 娘は保育園入り口で保育士さんに手を引かれていた。明日から保育園が休みになるらしい。気もそぞろな様子の娘を励まそうと、動画の話をしたが、うんともすんとも言わない。

 家に着き、妻は相変わらずデスクトップの画面に釘付けだった。「ゆうこちゃん、楽しい動画見せてあげる!!パパが見つけてくれたの」妻の声は弾んでいた。いいぞ、その調子だ。

 「えー、パパセンスないしぃ」娘は相変わらずテンションが低い。すると妻が一言「今回は当たりよ。イケメンのお兄さん達が出てくるのよ」と言い放つと、娘はそそくさと帽子を脱ぎ、妻の元へと向かった。

 俺は一人台所へ向かった。生協の宅配野菜で作り置き食材を1週間分作り終え、冷蔵庫にセッティングし、2泊3日分の自分の衣類をまとめ、同期の独身者のアパートへ軽い家出をすることとなった。


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