歌詞解説|XG - PUPPET SHOW
はじめに
XGは女性の強さを称揚するにとどまらず、新曲「PUPPET SHOW」では想像上で男女を逆転させることによって、女性に対する根深い差別や差別意識について問題提起している。
MVには公式の日本語字幕がついており、日本語として自然であること・簡潔であることを重視していそうな訳になっている。もちろんこれはひとつの良い方向性なのだが、違和感を抱く箇所がちらほらある。そのせいでテーマが少しぼやけてしまっている気もするので、この記事では自分なりの訳を載せてみる。また、自分が気づいた範囲だけだが、歌詞の元ネタに関する補足もしている。
そして、後半部分には曲の解釈や他の人の反応について大幅に追記している。この記事を投稿して以降、曲そのものに加え、リアクション動画やツイートを見て思うところがあるたびに、関連する箇所に追記してきた。その結果、全体的にかなり読みづらくなってしまったので、投稿のちょうど1週間後にあたる10/4に、記事の構成を大幅に見直した。「歌詞解説」と銘打っていることもあり、まずは歌詞の解説をして、その後に、解説には含められなかった自分なりの解釈や、いくつかのリアクションに対する意見を述べていこうと思う。
歌詞解説
要約
バース1ではひとりの男性に対する徒労感が語られる。語り手である「私」は、この男性から自分が尊重されていないと感じている。バース2ではその不満を男性に直接吐露する。
プレコーラスからは、男女の役割を逆転させるという想像がなされる。確証は無いが、バース1,2の「私」が自分で想像しだしたというよりは、XGが「私」に「想像してみようよ」と呼びかけていると解釈している。
そしてコーラスでは人形劇のたとえが用いられ、そこからは曲の終わりまで、男女が逆転した世界の様子が歌われる。
歌詞和訳・補足
これまで投稿してきた歌詞の補足では、その和訳を字幕から引用してきたが、今回は自分で和訳してみた。補足をつけている部分は太字にしている。
バース1
I get what I deserve:私が手に入れるに値するもの(what I deserve)を手に入れる(I get)
※この直訳だと説明的すぎて長いので、まるっと「報われる」と訳した。そろそろ尊重してもらわないと我慢の限界だという感情が窺える
バース2
come out my mouth:私の口から出てくる
※「話す」と訳した方がこなれているかもしれないが、より切実な感じを出すために「紡ぎ出す」にしてみた
lady:女性
※ニュートラルな 'woman' よりも、敬意がこもっているニュアンス。どう訳に反映させるか迷ったが、「ちゃんと扱って」と'treat' 側に敬意を込めてみた
ain't:be動詞の否定形で、荒いニュアンス(~じゃねえ、全然~じゃない)
up for debate/debating:議論の余地がある
→ain't up for debating:議論の余地なんて無いから
※"ain't"の「きっぱり言い切った感」を出すために、「なんて無いから」と訳してみた
※「議論の余地が無い」のは、「私のことを女性としてちゃんと扱う」ことであって、この曲全体や男性を操ることではないことに注意。この曲自体はむしろ、「男女が逆の世界を想像してみようよ」と、議論の余地を作りにきてくれている
stop playin':ふざけるのをやめて
※初めは「操るのはやめて」かと思ったが、人形劇のたとえはプレコーラス以降なので、ここでは「遊ぶ≒ふざける のをやめて」とした
go a different route:違う道を行く※初めは「別れる」としていたが、恋愛関係と明言されてはいないので、ニュートラルな意味合いの「一緒にいられなくなる」に変えた
プレコーラス
different roles:「人形劇における別の役」と「今まで女性が任されがちだったのとは違う役割」の両方を意味していると思う。
wrap around our finger(s):私たちの意のままに動かす、私たちが操る
※裁縫の時、これから使う糸を指に巻いていたことに由来(諸説あり)。「指に巻いているこの糸はいつでも使える」→「この糸は思いのまま」
ここではWrappedなので、「あいつ」をはじめ男性たちが操られるということ
コーラス
plastic doll:プラスチック製のおもちゃの人形
※Lady Gagaの楽曲「Plastic Doll」では、「他人を喜ばせるため(だけ)に造られた存在」という意味合いで 'plastic doll' というフレーズが用いられている。バース1, 2では自分が男から尊重されていない様子が語られていたことから、この曲でも「意思があるのに無いことにされている存在」という似たような意味が込められているように思う※'plastic doll' の代表格がバービー人形であることから、映画『Barbie』とこの曲を結びつけている可能性もありそう(未鑑賞なので何とも言えないが)
※初めは "play 'em like they're plastic doll" と読んでいたが、歌詞カードでは "play 'em like their plastic doll" なので、「(普段、男性たちが私たち女性を人形のように操っているみたいに)男性たちを人形のように操る」という解釈をした方がいいかもしれない。今回は歯切れの良さを重視して(そして正直、若干の逃げとして)、代名詞部分は省略している
バース3
cry me a river:私(me)に向けて、川(a river)ができるくらい大量の涙を流す(cry)→私に大泣きする
※「Cry Me a River」という1953年の曲が、様々な歌手にカバーされるくらい有名だそう。復縁を迫る男性のことを突き放す女性についての歌で、意味的にこの曲にもつながるところがあるので、あえてやっているかもしれない
extra:エキストラ、端役
※このバース単体で見れば、例えば「眼中に無い」といったように意訳した方が分かりやすいかもしれないが、劇が題材になっている曲なので「端役」とした
Bye Felicia:どうでもいいと思っている相手に対する、乱暴な別れの挨拶
※日本語にするなら「あばよ」みたいな感じ? 由来は、アメリカの1995年の映画『Friday』にて、ラッパーのIce Cube演じる主人公Craigが、Felisha(役名のスペリングはFeliciaではなくFelishaらしい)に放ったセリフとのこと。ギャングスタ・ラップの大物のセリフを持ってくるこの大胆っぷり
controler:「人形の操り主」と「ゲームのコントローラー」のダブルミーニング。厳密には、両方とも他者を操る意味合いなのでほぼ同じではある。続く 'Atari' や 'game over' といったゲームに関連するフレーズとの結びつきを示すために、ここでは「コントローラー」と訳した。
Atari:アメリカのゲーム会社。この企業が1977年から発売したゲーム機「Atari 2600」は、遊べるゲームが固定されていた従来のゲーム機とは異なり、カートリッジを変えて違うゲームを遊べるところが画期的であり、以降アタリはアメリカの家庭用ゲーム機産業をリードしたことで知られる。しかしその後は経営が悪化し、他の企業に買収されたらしい。
ここでは、売れに売れていた当時のアタリに自分たちを当てはめ、「全盛期のアタリみたいにガンガン、あいつらのこと操っちゃうから」という意味なのだと思う。一方で、アタリがその後経営不振に陥った事実も踏まえ、「こういうやり方だと、自分たち女性が操られてつらい思いをしてきたみたいに、何かしら歪みが起きてマズいことになる」ということを暗示しているように思えなくもない。
バース4
automatic:自動的
※ここでは、「自分の意思は無く自動的に従う」と解釈し、「従う」と訳している
プレコーラス
※訂正:1番のプレコーラスでは 'Where girls be takin' control.' だったのが、ここでは 'Where we be takin' control.' に変わっている。初めはこの違いを見落としていた… 1番ではXGがバース1,2の「私」に「女の子が支配する世界を想像してみよう」と呼びかけていたのが、2番ではその「私」も含まれているのだと思う。コメント欄にあるgninjaさんの解釈も参考になる。そもそも間違いに気づいたのはこのコメントのおかげ。感謝!
コーラス ※繰り返し
ブリッジ
expertise:専門家の助言、専門知識
※これは明言されておらず飛躍ぎみの解釈だが、いわゆる「マンスプレイニング」(男性が女性のことを自分よりも無知であると見なし、余計に知識をひけらかすこと)への皮肉のように思える。もちろん、経験や知識が豊富な人にお任せした方がよいことはたくさんあるが、その多寡を一方が勝手に判断して、「全部任せて」というのは健全ではない
コーラス ※繰り返し
自分なりの解釈
人形劇が意味すること
この人形劇のたとえは非常に鋭い。例えば、女性が性的被害を受けた際にその女性の服装の露出度を糾弾する声があがったり、先進的な企業ですら男女間に賃金の差があったり(これを調査・公表してくれたことは意義深いが)、政財界で男性ばかりが権力を持っていたり、他にもいろいろと、女性が女性であることによってさまざまな不利を被っている。
名目上は差別が無くなったとされているのにこうした不利は残っており、名目上は無いからこそ、「女性側がそういった服装や企業等々を自ら選んでいるじゃないか」というような、女性に責任を転嫁する物言いがされている場合すらある。このように、女性が動きたいように動いているようで、男性中心社会による制約や抑圧が残っている現状は、意思を持って動いているようで、実はパペットマスターによって操られている人形劇のように思える。
このような男女非対称の状況が、「女性はこうである」と指摘するだけでは伝わりづらい世の中なので、この曲では女性が男性を操る世界を仮定することで伝わりやすくしてくれている。男女を逆転させた目的は、この非対称性を浮き彫りにするためである。「想像してみよう」と言った上で人形劇のたとえを出しており、そのたとえをメタ視点から肯定している箇所は歌詞のどこにも無いので、「XGが男性を操りたがっている」と受け取る人がいるとしたら、それは明確に誤読と言っていいだろう。
この男女は恋愛関係にあるのか
バース1,2では男女の個人的な関係が描写されているため、この2人は恋愛関係にあるように思えるが、そう断定できる歌詞は無い。個人的な関係をまず持ってくることで受け手に具体的なイメージを与え、共感や同情を喚起することによって、直後のプレコーラス以降で「男女が逆転したら…」と想像させるための下準備にしているのだと自分は解釈している。
しかし、この解釈は自分の願望に少し寄せすぎな気もしている。どういう希望かというと、「せっかくXtraordinaryを標榜するなら、すでに様々なメッセージがたくさん歌われている男女の恋愛関係はスルーしちゃっててほしいな」という希望。とはいっても、彼女たち自身の経験や想いをこのパートに乗せて昇華しているかもしれないし、彼女たちがこのテーマについて歌うからこそ勇気づけられる人もいるはずだ。
サイモン氏からXGへのメッセージ
XG(やサイモン氏)から聴き手へのメッセージは、前述した通り、人形劇にたとえることで浮かび上がる男女の非対称性に対する問題提起と、そう提起することによる女性へのエンパワーメントだと思う。しかしそれだけではなく、この曲を何度もパフォーマンスするXGに対するメッセージという側面もあるのかも、と次第に考えるようになった。
アイドルの楽曲がリリースされるまでには、コンセプトメイキング、作詞、作曲、編曲、振付など様々な工程がある。こうした創造のプロセスにメンバーが関与することも今では珍しくないが、他のアーティストと比較すると、関与の度合いは概して低くなるだろう。
こうした現状に対して、「プロデューサーがパペットマスター、アイドルがパペットみたいになっている側面もこの業界にはあるけれど、そうじゃないあり方も模索していこうよ」というメッセージが込められていると解釈することもできるのではないだろうか。明確な単語やフレーズがあるわけではないので、あくまで眉唾物だが、もしそういう意味も込められていたら、これからのXGがもっと楽しみだ。
いくつかの反応への意見
ありそうな批判への反論
「この歌詞の男女を逆にしたような曲をボーイズグループが歌ったら大問題だ」という主張でもって、この歌詞を批判する人もいるかもしれない。しかし、そうした批判が向くべき先はXGや作詞家ではなく、こんな技巧を使わないと伝わりづらい世の中の風潮や、実在する様々な差別の構造、差別意識である。
この曲が出てからその反応として「これ同じことをボーイズグループが女性に対して言ってたらまずいよね」と主張するのは、現状の問題から目をそらすためのレトリックに過ぎず、全く本来的ではない。なぜ、現状の社会は男女で非対称になっているのに、曲では男女を対称にしなければいけないのだろうか。そんなことではこの非対称性がずっと保存されてしまう。
(上記の意見は、実際の主張を目にしてから書いたわけではなく、「こんなこと言う人いそうだな~」と思いながら書いたもの。結果的に、後述する動画配信者が同様のことを言っていたが、他にはこうした主張をしている人は見られなかった。仮想敵をイメージして書いちゃったことを反省しているが、ロジックとしては今も同じことを思っているので残している。)
反射的な批判の前にすべきこと
そんな「男女逆だったら~」という意見を述べていたのが、Teddygrey氏というイギリスのリアクション動画配信者だ。多くの批判を受けたからか、現在その動画を観ることはできない。彼は「想像してみて」という歌詞を、意図的なのか無意識なのかわからないがスルーし、この曲を男性差別であるとして批判していた。まず彼には、歌われている内容をしっかり読み取るということをやってもらった上で、もう1つ考慮してほしいことがある。
それは、性差を取り巻く概況が、欧米と日本(を含む東アジア)の間では大きく異なるということだ。アーティストが「グローバル」を標榜していても、楽曲が世界中に配信されていても、その楽曲のテーマについて、アーティストが出てきている文化圏ではどういった状況になっているのか理解しようとすべきだ。それをせず、自国や自分の周囲の価値観にひきつけることによってのみ批判するというのは、一般のリスナーならまだしも、楽曲を評価することで再生数、ひいてはお金を稼ぐこうしたリアクション動画の配信者がすべきことではない。
あえて今回の件を逆転させるならば、例えば、イギリスのとあるアーティストが階層社会を批判するような曲をリリースしたとして、それに日本のリスナーが「日本はイギリスほど階層社会がはっきりしてはないから、ここまで批判するのはちょっと…」と言うのは、あまりにもお門違いであろう。
大きな主語が帯びる危うさ
Teddygrey氏のリアクション動画を知ったのは、イギリスに留学経験のある日本人配信者であるCony氏による、当該動画へのさらなるリアクション動画だった(こちらも非公開または削除済み)。「動画」が指すものが2つになりわかりづらいので、ここではTeddygrey氏によるリアクション動画を「動画①」、Cony氏による動画①へのリアクション動画を「動画②」とする。
動画②のタイトルには「海外男性ファンが激怒」という目を引くフレーズが含まれていたのだが、動画①は反射的で冷静さを欠いており、彼の発言には非常に侮蔑的なフレーズも含まれていた。気になったので他の配信者によるリアクション動画もいろいろ観てみたが、動画①のような批判(批判ですらなく、ただのいちゃもん?)は自分が探す限りでは見られなかった。
そんな中で、極端な意見である動画①のことを動画②で「海外男性ファン」とニュートラルな表現で取り上げてしまうと、動画②の視聴者は、さも動画①の意見を真摯に受け止めるべきものかもしれないと、なんとなく思ってしまうのではないか。たしかに動画①の配信者は「海外男性ファン」という表現に含まれるので、動画②が嘘をついているわけではない。それでも、海外男性ファンという集合の中でも極端な動画①の意見を「海外男性ファン」とまるっと括って受け手に流すことは、悪影響ですらあると思う。純粋に「こういう反応もあるよ」ということを知ってほしくて動画②を作ったのだろうが、もう少し慎重になってほしい。
解釈を押し付けられる窮屈
今更になったが、本記事では歌詞についてのみ補足しており、MVと結びつけてはいない。なぜこう追記するのかというと、これまた動画配信者のARATA氏がTwitterで「XGのパペショ、糸で操る対象に『自分自身』も含まれていることを理解してない人多すぎる…。」と、自身のMVに関する解釈をもとに、他の受け手の理解が足りていないような口ぶりの投稿をしていたためだ。彼は別の投稿でも「自分たちで糸を掴んでいこう」という解釈を共有している。(現在はどちらの投稿も削除済み)
「糸で操る対象に『自分自身』も含まれている」「自分たちで糸を掴む」というのは、ひとつの解釈としてはもちろんあっていいはずだが、そうは思わない人のことを揶揄できるレベルで断定するには無理があるように思う。なぜならこの解釈だと、「おもちゃの人形」「糸で吊るせばなんでもさせられる」という歌詞の、あえて主体性を削いでいる感じがむしろ邪魔になってしまうためだ。
それにもかかわらず、歌詞の世界にじっくり浸りたいリスナーを横目に「糸で操る対象に『自分自身』も含まれていることを理解してない人多すぎる…」と、見下しともとれるツイートをするのはどうなんだろう。「解釈にひとつの『正解』があって、それは歌とMVをひとセットで解釈することによってのみ辿り着ける」のだとしたら、そうした作品にはいい意味での余白が無く、ずいぶん窮屈なものになるだろう。余白があるからこそ、そこに受け手のさまざまな立場や背景や属性が重なることで、その人なりの楽しみ方や解釈が生まれ、コンテンツ全体として豊かなものになっていくのだと思う。
※ちなみにARATA氏は「PUPPET SHOW」の歌詞に関する配信で「解釈は人それぞれ」と明言しているにもかかわらず、その後に他者の解釈を狭める上記のような投稿をしていて、どっちのスタンスなのか困惑している
※なお、ここで言っている「その人なりの楽しみ方や解釈」が、Teddygrey氏のように適切な理解や配慮を欠いていることによって、他の境遇にある人を傷つけうる場合には、もちろん批判の対象になる。当たり前だが、何を言っても1つの意見として他の意見と対等に受け入れられるというわけではない
強者が持つべき想像力
ARATA氏は同配信の序盤で、Teddygrey氏の動画に触れながら「この曲は男性差別なのか?」という問いを投げかけているが、この問いかけもまた、Cony氏同様に少し迂闊なところがあると思う。歌詞を読めばすぐに分かることだが、「想像してみよう」と言った上で、女性が男性を操る人形劇について描写しているのであって、「実際に男性を操りたい」とか「男性は人形だ」とか、そういうことはこの曲で主張されていない。表現されていない部分を想像で補完した解釈は当然尊重されるべきだが、歌詞を誤読/無視し、さらには侮蔑的な表現をあえて含めているような意見はその限りではない。
明らかな誤読/無視に基づき、さらには侮蔑的な表現を含むTeddygrey氏の意見を、「海外男性ファン」の意見としてまるっと括ってしまうCony氏や、「男性差別なのかどうか」という二択のうちの1つの選択肢に「格上げ」してしまい、「そういう考え方もあるんだな」「こういう意見が出てくることはアートとしては健全」と言えてしまうARATA氏には、自分がかなり強い立場にいるからこそ無邪気にそうした表現・発言ができてしまうという可能性があることを自覚した上で、ひと呼吸おき、想像力を働かせた上で発信をしてもらいたいと感じた。
Teddygrey氏のようなリアクションを知るだけで「またか…」「まだこの段階か…」とうなだれる人がいるはずなのに、それをさもひとつの意見としてあっていいもののように取り扱われたら、さらにその無力感や徒労感は増してしまうだろう。こうした感情的な負債を考慮に入れた上でもなお、紹介することに意義のあるリアクションだったのだろうか。私は全くそうは思わない。
リアクション動画のいち視聴者として
3名の配信者によるリアクション動画に対してあれこれ述べてきたが、リアクション動画という形式自体にも問題の原因があると考えている。配信者は、もちろん自分が感じた/思ったことを動画にしているだろうが、再生回数を増やしたいという気持ちもどこかしらにはあるだろう。再生回数を増やすためには、あえて嫌な言い方をすると、「ファンダムに媚びる」「物議を醸す」という方向性があると思う。
リアクションの対象になるコンテンツは、アイドル本人たちをはじめ様々な人の努力の結晶であるため、大抵の場合どこかしら褒めるところがある。そのため多くの配信者は「ファンダムに媚びる」という方向性を選んでおり、リアクション動画の多くはそのコンテンツを褒める内容が主だ。 。褒める観点が参考になったり、楽しそうなリアクションを観ていてこちらも楽しくなれるからこそ、再生数を伸ばせているのだろう。ファンとしてもそれは純粋に嬉しいし、そうした配信者を批判しようという気持ちは芽生えてこないのが普通だ。
しかしそのことが、その配信者をいつも無批判で受け入れていい理由にはならないことに注意したい。「再生数が稼げるからそうしている」という側面が、常に少しは同居しているはずだ。人によっては、「今回は激しく非難することで物議を醸して再生数を稼げるな」と方向性を切り替えたり、さらにはそういう「キャラ」でやっていくこともあるだろう。Cony氏とARATA氏はここまではいかなくとも、「こういう意見を紹介すれば話題になるかな(自分とは違う立場の人がどう思うかはともかく)」という下心があったからこそ、配慮の欠けたところのある動画を出してしまったように思えてならない。
だからこそ自分は、リアクション動画を観る時に、「本当にこの人はこう思っているのかな。こうすることで美味しい思いができるからとかじゃないかな」「話題性重視で肝心なことが抜け落ちてたりしないかな」といった、少し斜めからの視点を忘れないようにしたい。
おわりに
この曲が受け手の中で「物議」になってしまうこと自体、やはりこの曲が世に出てよかった理由になる。この曲を聴いて「男性を操ろうとしている」と思ったり、そういう意見があることを知って「一理あるかも…」となった人がいるのだとしたら、この2冊をおすすめさせてもらいたい。
自分はこれらの本を読んで、フェミニズムとは男女の対立を煽るものではなく、既存の制度や風潮の中で弱い立場に置かれがちな女性を解放するための思想や運動であること、「強者」がもたらす歪みによって大変な状況にある人々のことをフェミニズムの実践によって救えること、その中にはもちろん私のような男性も含まれることを知った。
少し飛躍するが、学ぶことで得られた知識という土台に想像力を重ねていくことで、他者に対してなるべく誠実でいたい。そしてそんな想像のきっかけを与えてくれるアーティストや制作陣に感謝したい。せっかくそうしたきっかけがあっても、了見が狭いことによって想像の機会を逸したり、間違った想像をしたりして誰かを傷つけてはいけない。それにコンテンツを楽しむという意味でももったいない。そうはならないよう、学び続ける受け手でありたい。
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大学の先輩に声がけしてもらい、ポッドキャストでXGについて語っています。(34:58から)